2017年1月8日日曜日

神様の「良い事」

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇103:2)

新しい年が始まった。牧師として、1年最初のメッセージはやっぱり「新しい年を迎える」系のメッセージになりやすい(1日はECで不在だったので、今日が最初のメッセージでした)...僕だけかな。

年末とか年始によくこのみことばを使う...「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

でも、「良くしてくださった事」って何だろう?
実はこのみことばはこの後続く103~106篇のテーマになっているんです。
つまり、詩篇103~106でダビデは「神様が良くしてくださった事」をズラズラと歌ってるわけです。

その中で目に留まったのが105:16-24。ここでダビデはヨセフのストーリーに触れてる。
(創世記37-50章にヨセフのストーリーがあるので、わからない人は読んでみてください)

ヨセフは12人兄弟の11番目として生まれ、父親に溺愛(偏愛)され、兄たちに妬まれ、売り飛ばされ、奴隷になり、主人の妻に無実の罪で訴えられ、牢屋に放り込まれ、夢の解き明かしをしてあげたのに忘れ去られ...どれもこれも彼の落ち度は何もなく、すべて他人からされた事...そんな悲惨な出来事が次から次に起こっていたんだよね。

絶対辛かったと思う。傷ついたと思う。心ズタズタだったと思う。「神様どうして???」って何回も何回も叫んでいたかも...

でも、その後彼はエジプトの王に見込まれ、エジプトの王に次ぐ位と権威を与えられ、そして...詳しいことは省略するけど...家族(父親と兄弟たち)が飢饉の中でエジプトに移り住んで生き延びることができて、そしてイスラエル民族が存続することができて...と言うすばらしい「めでたし、めでたし」に至るわけです。

一つ一つの出来事を見ると「悲惨な出来事」だらけだけど、全体のピクチャーを見ると...何とも素晴らしい神様のご計画があるのが見える。

そしてダビデはヨセフに降りかかった一連の「悲惨な出来事」から最後の「めでたし、めでたし」までのすべてを「主の良くしてくださった事」に含めて歌っています。

ヨセフのストーリーの最後に、ヨセフが自分を売りとばした兄たちにこんな事を言ってます。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 (創世記50:20)

これは苦しみの中を通っている人に、牧師が座り心地のいいソファーに座って語っている言葉じゃない。
涙に明け暮れている人に、友達がとりあえず慰めようとして語っている言葉じゃない。

悲壮な人生を生きなければならなかった張本人が、自分を売りとばした...彼らが自分にしたことがすべての始まりだった...そんな悲劇の第一歩となる「ひどい事」をした兄たちに対して言った言葉...。

物凄い信仰の言葉だと思いませんか。

あなたたちはあんなひどい事をした。僕はそのせいであなたたちには想像できないような人生を送る羽目になった。でも、僕はそれでも神様が自分を愛してくれている事、そして自分はどんな時にも神様の愛のご計画の中に置かれている事を信じています。

そんなヨセフの信仰から出た言葉だと思う。

僕たちはつい目の前の一つの出来事を見て、それが「良い事」か「良くない事」かを判断しようとしてしまう。
でも神様の目には一つ一つの出来事ではなくて、全体のピクチャーが映っているんです。
一つ一つの出来事は、究極的な「良い事」を実現させるための歯車なんです。
一つ一つの出来事は、美しい景色のパズルを完成させるためのピースなんです。

そうは言っても辛い時は辛いし、苦しい時は苦しいんだけどね...でもこれがわかると少し違う景色が見えてくるんじゃないかな...。

ECで会った人たちはみんな違う道を通って来てました。辛い、苦しい所を通って来てる人もいました。心に深い傷を抱えている人たちもいました。でもそれぞれが今まで通らされてきた道を通して神様は彼らをアメリカに連れて来て、その中でクリスチャンとの出会いがあって、その出会いを通してECに来て...それは神様が「わたしの事を知って欲しい。わたしがあなたを愛している事を知って欲しい。」と言う究極の「良い事」に一人一人を導くためだったんだと思う。

僕たちはみんなまだ旅の途中...「良い事」が見えていない人も多いと思う。
でも2017年に神様は着実に「良い事」に導いてくださる...或いは近づけてくださいます。

そしていつか、振り返って「主は良いお方」と言える日が来る...そう信じて、2017年を楽しみにしたいものです。

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