2017年1月16日月曜日

変えられた自分

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、
栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(2コリント3:18)

僕は牧師になる前、ずっと伝道を避けてました。

教会で伝道のトレーニングは受けてました。だから何をどうやって伝えるかはとりあえず頭には入ってました。
でも、イエス様を伝えて「No」と言われたら、その後何て言えばいい?どうやってその場を繕えばいい?めっちゃ気まずい...って思うと、できなかったんです。もともと人と1対1で話すのは苦手だったし...。

その代りと言ってはなんだけど、他の奉仕はめちゃくちゃ積極的にしてました。日曜学校の先生、賛美(教会でバンド組んでました)、特別集会の企画、バイブルスタディ、etc.

でも伝道はやってなかった。伝道集会の企画とかしてたからとりあえず関わってるし...みたいな気持ちもあったかも。

「人々に救われて欲しい」って言う事を頭ではわかってたけど、そういう気持ちは全然沸いて来なかったですね。仲のいい友達に伝道好きがいたので、伝道はもっぱら彼に任せて...みたいな気持ちもあったと思います。

そんな僕を神様は「教会開拓」と言う働きにかなり強引に押し出されました。あの時は「神様、まじですか?」って思いました。今でこそ神様のユーモア、とか言えるけど、あの時は「神様の意地悪」としか思えなかった(笑)。

教会開拓をしていると、伝道しないと話にならない...何も始まらないし、何も進まないから。
教会を建て上げる最初の一歩が伝道だから。

教会に来てる人たちもそれを期待してるし、周りの先生方からも教会が成長していく事を期待してるし、何とか伝道しなきゃ...。でも基本、内向的なので、出て行って知らない人にいきなり話しかけて会話をするって事はできない...と思ってたら神様が未信者を僕の方に連れて来てくれたり、学生の中に放り込んで話せる状況を作ってくれたり...。

そんな中で最初は自分をかなりプッシュしてイエス様の事伝えてた。最初の中は思いっきり、「牧師的義務感」で伝道してた。そんな中で神様が一人救ってくださって、そしてまた一人救ってくださって...イエス様を伝えて、救われる人が起こされる時の喜び...あれは中毒になりますよ。やめられない。

気が付いたら、いつの間にかイエス様を伝えることが楽しくなってたんです。

Equipper Conferenceでも男性集会のメッセージを頼まれて参加したので、自分の中では男性集会がメインでした。でも気が付いたらSeekers(求道者)たちとばっかり話している自分がいて、Seekersの集会に常に顔を出している自分がいて、Seekersの子たちを常に目で追いかけている自分がいて...。

昔の僕を知ってる仲間たちは僕がこんないイエス様伝えてるって想像できないんだろうなぁ、と思いながら...自分でも、いつ、どこでこんな風になっちゃったんだろう...って不思議に思ったり...。

これは僕が変わろうとして変わったんじゃない。僕の努力でここまで来たんじゃない。むしろ僕は全力で避けてたし...(笑)。でも、神様が、伝道をせざるを得ない状況にかなり強引に僕を引っ張り込んで、その中でこれまたかなり強引に変えてくださったんです。いやぁ...神様ってすごい!!

今でも僕は内向的です(みんななかなか信じてくれないけど)。外に出て行って、知らない人話しかけるとかできない。たとえ話しかけても会話が続かない。1対1で話しているとすぐにシーンとしてしまう。

そんな僕に神様は場所を用意して、機会を用意して、語る言葉をくださって、用いてくださる。
日常会話は続かなくても、イエス様を伝え始めたら止まらない...ほんと、神様ってすごい!!神様、ありがとう!ハレルヤ!

2017年1月8日日曜日

神様の「良い事」

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
(詩篇103:2)

新しい年が始まった。牧師として、1年最初のメッセージはやっぱり「新しい年を迎える」系のメッセージになりやすい(1日はECで不在だったので、今日が最初のメッセージでした)...僕だけかな。

年末とか年始によくこのみことばを使う...「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

でも、「良くしてくださった事」って何だろう?
実はこのみことばはこの後続く103~106篇のテーマになっているんです。
つまり、詩篇103~106でダビデは「神様が良くしてくださった事」をズラズラと歌ってるわけです。

その中で目に留まったのが105:16-24。ここでダビデはヨセフのストーリーに触れてる。
(創世記37-50章にヨセフのストーリーがあるので、わからない人は読んでみてください)

ヨセフは12人兄弟の11番目として生まれ、父親に溺愛(偏愛)され、兄たちに妬まれ、売り飛ばされ、奴隷になり、主人の妻に無実の罪で訴えられ、牢屋に放り込まれ、夢の解き明かしをしてあげたのに忘れ去られ...どれもこれも彼の落ち度は何もなく、すべて他人からされた事...そんな悲惨な出来事が次から次に起こっていたんだよね。

絶対辛かったと思う。傷ついたと思う。心ズタズタだったと思う。「神様どうして???」って何回も何回も叫んでいたかも...

でも、その後彼はエジプトの王に見込まれ、エジプトの王に次ぐ位と権威を与えられ、そして...詳しいことは省略するけど...家族(父親と兄弟たち)が飢饉の中でエジプトに移り住んで生き延びることができて、そしてイスラエル民族が存続することができて...と言うすばらしい「めでたし、めでたし」に至るわけです。

一つ一つの出来事を見ると「悲惨な出来事」だらけだけど、全体のピクチャーを見ると...何とも素晴らしい神様のご計画があるのが見える。

そしてダビデはヨセフに降りかかった一連の「悲惨な出来事」から最後の「めでたし、めでたし」までのすべてを「主の良くしてくださった事」に含めて歌っています。

ヨセフのストーリーの最後に、ヨセフが自分を売りとばした兄たちにこんな事を言ってます。
あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」 (創世記50:20)

これは苦しみの中を通っている人に、牧師が座り心地のいいソファーに座って語っている言葉じゃない。
涙に明け暮れている人に、友達がとりあえず慰めようとして語っている言葉じゃない。

悲壮な人生を生きなければならなかった張本人が、自分を売りとばした...彼らが自分にしたことがすべての始まりだった...そんな悲劇の第一歩となる「ひどい事」をした兄たちに対して言った言葉...。

物凄い信仰の言葉だと思いませんか。

あなたたちはあんなひどい事をした。僕はそのせいであなたたちには想像できないような人生を送る羽目になった。でも、僕はそれでも神様が自分を愛してくれている事、そして自分はどんな時にも神様の愛のご計画の中に置かれている事を信じています。

そんなヨセフの信仰から出た言葉だと思う。

僕たちはつい目の前の一つの出来事を見て、それが「良い事」か「良くない事」かを判断しようとしてしまう。
でも神様の目には一つ一つの出来事ではなくて、全体のピクチャーが映っているんです。
一つ一つの出来事は、究極的な「良い事」を実現させるための歯車なんです。
一つ一つの出来事は、美しい景色のパズルを完成させるためのピースなんです。

そうは言っても辛い時は辛いし、苦しい時は苦しいんだけどね...でもこれがわかると少し違う景色が見えてくるんじゃないかな...。

ECで会った人たちはみんな違う道を通って来てました。辛い、苦しい所を通って来てる人もいました。心に深い傷を抱えている人たちもいました。でもそれぞれが今まで通らされてきた道を通して神様は彼らをアメリカに連れて来て、その中でクリスチャンとの出会いがあって、その出会いを通してECに来て...それは神様が「わたしの事を知って欲しい。わたしがあなたを愛している事を知って欲しい。」と言う究極の「良い事」に一人一人を導くためだったんだと思う。

僕たちはみんなまだ旅の途中...「良い事」が見えていない人も多いと思う。
でも2017年に神様は着実に「良い事」に導いてくださる...或いは近づけてくださいます。

そしていつか、振り返って「主は良いお方」と言える日が来る...そう信じて、2017年を楽しみにしたいものです。

2017年1月4日水曜日

7x70=信仰のステップ

そのとき、ペテロがみもとに来て言った。
「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。
(マタイ18:21-22)

5年ぶりにカリフォルニアで行われたEquippers ConferenceECに行ってきました。
3日目の夜にもたれる「男女別集会」の男性集会でのメッセージを頼まれて(妻が女性集会)、家族で行くことになったんです。

メインの講師は朝の集会が山崎ランサム和彦先生。夜の集会が内越努先生

初日の内越先生のメッセージで「赦し」の話があって...2日目にJCFNの清水摂さんが帰国に関するメッセージをしたんですが、そこでも「赦し」の話があって...3日目に用意していた僕のメッセージでも「赦し」が結構大きなテーマで...

以前の僕なら「ゲッ...かぶってる...」って焦り始めてたかもしれないんだけど、今回は逆にワクワクしてきた。今回のECで神様は参加者に繰り返し、何回も「赦し」について聞いて欲しいんだ...って。打ち合わせも何もなしで、こんなにテーマが一貫するなんて、これぞ神様からのメッセージ!焦るどころか神様のすごさに鳥肌立ったし。

よく「イエス様を信じた時にすべての罪が赦されました」って言うけど、過去形で行ってしまうためか、なんとなくニュアンス的にその「赦し」が今日も着いて来てるって感じがしないような気がするんですよね。

だからある人たちは同じ罪を繰り返してしまったり、やめなきゃいけない罪をやめられなかったりすると、「もう自分はだめだ」って思って落ち込んでしまったりする。もう神様は愛してくれないんじゃないか...とか思っちゃったりすることもある。それはサタンの声だよってわかっていても、自分で自分が嫌になってしまったり...神様を信じる資格ない、とか思ったり...。

内越先生がマタイ18:21-22の話をされてたけど、ペテロがイエス様に「罪を犯した人を何回赦せばいいですか?」って聞いた時、イエス様は「7の70倍」って答えられた。つまり何回でも...って事。

イエス様が私たちに「7の70倍赦しなさい」って言うって事は、神様ももちろん僕たちを「7の70倍」...いや、それ以上、何回も何回も赦してくださるって事だよね。その事を僕たちはつい忘れてしまうのかもしれない。人間界ではありえない事だから。

でもイエス様が十字架で流された血潮は僕たちのどんな罪深さをも、いつまでも聖め続けてくださる、奇跡の血潮...ちょっとやそっとじゃその効力はなくならない。

大切なのは、赦していただくためには悔い改めが必要って事。

罪を犯してても自動的に永遠に赦していただける...って事じゃない。罪を犯す度に罪を悲しんで、罪を悔い改めて、「神様、もう一度あなたに従っていきたいです!そのチャンスをください」って神様の方に向き直る時、神様は「7の70倍」赦してくださる。

僕たちはまだまだ完璧じゃない。だから罪を犯しちゃう。毎日罪を犯しちゃう。今日も罪を犯しちゃう。明日も罪を犯しちゃう。

だから今日、罪を犯したら、悔い改めて、今日赦していただいて、今日神様に従っていく道に戻ればいい。
明日、また罪を犯したら、また悔い改めて、また赦していただいて、また神様に従っていく道に戻ればいい。
明後日、また罪を犯したら、また悔い改めて、また赦していただいて、また神様に従っていく道に戻ればいい。

そうやって、毎日神様の赦しを体験しながら、一歩ずつ神様に近づいて行く...これがクリスチャンの生き方なんだね。

神様、こんな私を愛して、赦し続けてくださって本当にありがとう。

イエス様、こんな私が赦され続けるために十字架にかかってくださって本当にありがとう。