2015年3月1日日曜日

世界で一番虫のいい話

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 
(エペソ2:8)

私たちは恵みのゆえに救われました。でも私たちは信仰によって救われました。恵みによって?信仰によって?どっち?日本語だとここの訳し方が少し曖昧ですが、ギリシャ語や英語の聖書を読むと「恵みのゆえに、信仰を通して」となっています。この方がわかりやすいですね。つまり私たちは信仰を持つことを通して、恵みのゆえに救われたんです。恵みって何でしょうか?後半に書かれている「神からの賜物」です。でも単なる「贈り物、プレゼント」よりも遥かに価値があるものです。恵みとは、私たちが本来受ける事の出来ない物をいただく事だからです。

「確かにイエス様が私のために死んでくださったんだけど、私が救われたのは、私がイエス様を選んで、私がイエス様を信じる決心をしたからなんだ。」と思った事ありませんか?だってイエス様は山田君のためにも死んでくださったけど、山田君はイエス様を選んでないから救われてない。それに比べたら私はイエス様を選んだんだ。確かに誰かが祈っててくれたし、誰かがイエス様の事を伝えてくれたけど、最終的には私が自分でイエス様を選んで信じようと決心したんだ。そんな風に思った事はありませんか?私は長い間そんな思いが抜けませんでした。

でもエペソ人への手紙2章を読んでいるうちに「恵みによって」の意味が段々わかってきました。2節を読むと、私たちは以前は「罪の中にあってこの世の流れに従い...不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました」と書かれています。そして3節でも「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」とあります。普通に使う表現で言うと、「悪魔と罪に心を任せて、神様よりも、自分...神様がどう思うかなんてこれっぽっちも考えずに、自分が好きかどうか、自分がやりたいかどうか、自分が正しいと思うかどうかを優先させて生きていた」わけです。これは物凄くひどい人間の姿ですね。理性を捨てて、本能で生きている...と言ってもいいような、恐ろしく、醜い姿です。そしてもっと恐ろしい事に、これは私とあなたの事を言ってるんです。更に、最も恐ろしい事にそんな状態だった私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だったんです。

神の御怒りを受けるべき状態って考えた事ありますか?お父さんが怒ってる、先生が怒ってる、お巡りさんに怒られた...って言うのとは違います。全然違います。レベルが違います。相手は全世界を造られた全能の神様です。全世界をその手に治めておられる主権者です。私がこの世に存在しているのはまさにこの神様のお陰であって、私のいのち、私の人生はこの神様の手の中にあるんです。その神様の御怒りの対象であるってとんでもなく恐ろしい事ではないでしょうか?神様の御怒りの中にある時、そこには祝福なんてありません。私がしてる事へのサポートはゼロです。マイナスです。どんなに辛い、苦しい人生の嵐の真っ只中でも一人ぼっちです。自分の力にしか頼る事ができません。どんなに祈っても、どんなに叫んでも、何も起こらないし、何も変わりません。神様の御怒りの中にいるからです。

そんな御怒りの対象になるような「罪深い」私たちは、それでも更に罪に罪を重ね、神様を裏切り続け、神様を傷つけ続け、神様を無視し続け、神様の愛を踏みにじり続け、「私は自分で幸せになれる。これは私の人生なんだから自分で生きる。放っておいて!」と傲慢な思いで好き勝手に生き続けてきました。そんな私たちのためにイエス様が苦しんで死んでくださったのに、私たちは毎日その背中にムチを振り下ろし、その手足に釘を打ち付けながら生きていたんです。こうして書いてみると、めちゃくちゃひどい人間ですよね。そんな私たちが「信じる」だけで救われる事ができる...そんな虫のいい話があっていいんでしょうか?これっぽっちも自分のしてきた罪を償わなくていいんですか?本当に「信じる」だけでいいんですか?

神様は「いいんだよ」って言って、大きく手を広げて私たちを迎え入れて、抱きしめてくださいます。これは「恵み」でなくて何でしょう?

そんな私たちのために神様はひとり子を送ってくださいました。これは「恵み」でなくて何でしょう?

そしてイエス様は救いの対象である人間にムチ打たれ、あざけられ、十字架に釘づけにされ、それでも私たちを愛する愛の故に耐えて、ご自身をささげてくださいました。これは「恵み」でなくて何でしょう?

あなたは恵みによって救われました。

その恵みにあなたは何をお返ししますか?