2015年8月28日金曜日

不安になってもいいじゃん

人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
(箴言16:9)

自分にできる、と思っていて実はできない事って結構ある。

健康管理...ある程度はできるけど、それでも病気になるでしょう?気持ち的には自分で管理できるような気がする時があるけど、所詮、限界があるんだ。

就職...ちゃんと勉強して、積極的に就活して、やる事ちゃんとやってたら就職できるような気がするけど、究極的な選ぶ権利は先方にある。って事はこれは自分で結果を出せる、って言うもんじゃない。

恋愛・結婚...これまた選ぶ権利は相手にもあるって事を忘れちゃいけない。

人付き合い...これも50%は相手次第。どんなに自分が「良い人」でも相手次第で人付き合いは上手く行かなくなる。逆も同じ。どんなに相手が「良い人」でも私が関係を壊してしまう事がある。

日々の計画...どんなに計画的に動いていても「予想外の出来事」ってのが飛び込んで来て、計画をぐちゃぐちゃにすることがある。子供の病気、車の故障、電車の遅れ、などなど。

牧会も例外じゃない。どんなに頑張っても、どんなに神学校で教わった通りにやっても、人が思うように成長してくれるとは限らない。

こうやって考えると人生、思い通りに行く事の方が少ないのかもしれない。
神様はそんな私たちに言われます。「もっと私を信頼して、私に頼りなさい。」

万事を尽くして天命を待つ...って事?それって不安じゃない?

もっと自分にできる事があるんじゃないかな...後で自分の努力が足りなかった、もっとああすれば良かった、こうすれば良かった、って後悔するんじゃないかな...。って僕なんかは思っちゃう。

でも、どんなに頑張っても、自分の力には限界がある。自分の努力や自分の力で変えられる事って思ったより少ないんだ。そう思うとどんどん不安にならない?

「不安になるでしょう?だから私に頼るといいんだよ。だから私に頼るしかないんだよ。」と神様は言われているような気がする。

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(2コリント12:9)

不安は神様が働かれる領域。
「心配」の一歩手前が「不安」です。神様は心配してはいけない、と言われます。だから心配の一歩手前で神様に頼る...自分の力が及ばないから神様に頼る。

そしたら、神様の力が完全に現れて、その計画はゆるがない...それが聖書の約束だね。

僕たちはつい自分で一生懸命努力して、頑張って...って言う傾向がある。そうやって育てられてきたから。でも自分の力が及ばない部分にはどうあがいても自分の力は及ばないんだ。それに気づいた時、それを見極めた時、「不安」になる。

そして「不安」になった時、神様に頼ろうって思える。

自分の力を過信している人が神様に頼らないのは、この見極めができないから。
でも自分の弱さを把握している人は、「不安」を体験できるから、神様に頼る事ができる。

不安になってもいいじゃん。不安は神様に頼れる絶好のチャンスだから。そんな事を最近神様が教えてくれた。今度不安になったら、神様に頼ってみよう。


2015年8月21日金曜日

今いる所から始めればいい

それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
(ピリピ3:16)

僕のメッセージは厳しい...ってよく言われる。「従う」って事を良く語るかららしい。

確かに「従いなさい」って言われる事を好む人はあまりいないよね。できればそんな事言われたくない、って言うのが本音なんだろう。

ってわかってるんだけど、聖書は至る所で私たちに「神に従いなさい」って言ってる。これは神様が私たちに知っておいてほしい大切な「真理」なんだよね。だからやっぱ語らずにはいられない。

人々はそんなメッセージをプレッシャーに感じるのかな...プレッシャーに感じてしまうと喜べない。喜べないと受け入れにくい。受け入れにくいと結局従えない。う~ん...悪循環だ。

そんな事をあれこれ考えている時にこのみことばに出会った。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

神様は今日中に100%聖くなれ、100%従えるようになれ、って言ってるんじゃない。
今週中にすべてを明け渡してパウロのようになれ、って言ってるんじゃない。
今月中に今犯している罪を全部やめろ、って言ってるんじゃない。

みんな立っている位置は違う。レースで言うなら、ある人はイエス様を信じたばかりで、スタート地点に立ってるかもしれない。ある人はレースをスタートして間もないかもしれない。ある人は5km地点、ある人は10km地点、ある人は折り返し地点まで来ているかもしれない。

みんな次の一歩は違ってていいんだ。みんな次の一歩は違うはずなんだ。

信じたばかりの人は、まだクリスチャンとしての生き方がどういう物なのか手探り状態だろう。まだ前のライフスタイルがいっぱい残っているだろう。人の模範となる、とか言う以前に、まずは日曜日に教会に行こうって言う段階かもしれない。それでいいと思う。

信じて2~3年目の人は、もしかしたらやっと毎週日曜日教会に行くのが当たり前になって来た...って感じかもしれない。でもまだ毎日ちゃんと聖書が読めなくて、って感じかもしれない。聖書を学んで、やっと少しわかり始めて来たって感じかもしれない。周りに自分より新しいクリスチャンがいるようになって、時々「いい模範にならなきゃ」って示され始めている頃かもしれない。でもどこから始めていいのか、いまいちわからないかもしれない。それでいいと思う。

信じてかなり経っている人は...もしかしたら新しいクリスチャンを導く立場にいるかもしれない。でももしかしたら、未だに聖書を毎日読むのが課題かもしれない。もしかしたら、罪との戦いの最中で葛藤しているかもしれない。

みんな立っている位置は違うんだから、次の一歩も違ってていいんだ。隣りの人がしている事をできるようにならなきゃって必要以上に頑張らなくていいんだ。教会で他の人がしているように自分もできるようにならなきゃって10歩も20歩も先に進もうとしなくていいんだ。

このみことばの前の部分からもう一度読んでみよう。

ピリピ3:13 うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み
ピリピ3:14 神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
ピリピ3:16 すでに達しているところを基準として、進むべき

自分が今いる所を基準として、次の一歩を踏み出せばいいんだ。一歩でいいんだ。大切なのはこの一歩を踏み出したい、って言う気持ち。イエス様が私のために十字架で苦しんで、死んでくださったんだから、その愛に応えて一歩踏み出したい、って言う気持ち。


その気持ちさえあれば、後は聖霊様が力を与え、助けを与え、次の一歩を踏み出せるようにしてくださるから。焦らず、慌てず、一歩ずつ。