2014年11月25日火曜日

How to 御霊の実

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
(ガラテヤ5:22-23)

ハレル~ヤ~ 御霊の実~は~♪
昔、歌で御霊の実を覚えたものです。でも困った事に、毎回、歌わないと御霊の実が出てこない(笑)

御霊の実ってどうやったら結ぶことができるんでしょう?

「もっと愛のある人になろう」「もっと喜びを持とう」「平安で心を満たされなきゃ」「親切な人になろう」って思うんだけど、大抵最初の「愛のある人」でつまづいちゃう。だって、そう簡単に愛のある人になれるもんじゃないですからね。

ガラテヤ5章をよく読んでみて気づいたのは、「御霊の実を結びなさい」とはどこにも書いてないんです。
って言うか、聖書のどこにもそんな事書いてないんです。

そう言われてみると、「実」って結ぼうと思って結べるものじゃない。

木の実を考えてみよう。一生懸命努力して、「う~~~~ん!!!」って力んで、力んで、「ポンッ!」って実を結んでる木なんて見たことない。出産じゃあるまいし...笑。

木は地中の水分や栄養分を吸収して、太陽の光を吸収して、そしてその結果「実」がなるんだ。(もちろん生物学的にはもっといろいろ要素があるんだけど)

つまり「実」って言うのは、「結果」なんです。

御霊の実も同じように、自分で努力して結ぶものじゃなくて、別の努力の結果に過ぎないんですね。

そう思ってガラテヤ5章をもう一度読んでみると...「御霊によって歩みなさい」(16節)、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(25)って書いてある。

御霊によって歩む、御霊に導かれる、御霊によって生きる...それがガラテヤ5章後半のテーマであり、メッセージなんです。

じゃ、御霊によって歩む、御霊に導かれて歩むってどういう事?
これだけで本が一冊書けそうな大きなトピックですね。
まず、御霊によって歩むって言うのは、イエス様のみことばに従って歩む、って事。
「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべての事を思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

イエス様が話した事...みことばです。これを思い起こさせてくれるのが御霊の働きです。

何かをしてる時に「あ、今、クリスチャンとしてこうするべきだよね」って言う思いが心の中に浮かぶことがあります。御霊が働いている瞬間です。

みことばが心に浮かぶこともあるでしょう。御霊が働いている瞬間です。

みことばを思い起こした時にどうしますか?それに従って歩む...やっぱそれしかないですよね。

もう一つ、御霊によって歩むって言うのは、罪を悔い改めて歩む、って事。
「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:9)

何かをしてる時に、「これ罪だよね」って思う事があります。
御霊が働いている瞬間です。

御霊は私たちの罪を指摘してくれます。その時どうしますか?やっぱ悔い改めるしかないでしょう。

御霊によって生きるって言うのは何か超自然的な物を「感じる」事ではなくて、自分の罪を悔い改めて、みことばに従って生きる事です。

罪を悔い改めて、みことばに従って生きているなら、自然に「御霊の実」が結ばれていきます。
これは一晩では起こりません。日々悔い改めて、日々従って行く中で、少しずつ、少しずつ変えられていくわけです。

御霊の実...結びたいですね。
まずは今日、悔い改めて、みことばに従って生きてみましょう。

心に御霊からの罪の指摘、そしてみことばが浮かぶ時、それをしっかりと受け止めて、従っていきましょう。

2014年11月21日金曜日

聞く耳持って

愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
(箴言12:15)

「信仰は大丈夫なんですよ。」とそのご婦人は言った。

何かの小説の一文のようですが...教会生活に喜びが無い、と相談に来られたご婦人の言葉です。

教会に自分の居場所が見いだせない。心を開いて話せる相手がいない。喜びがない。
こう言う人たちの多くは、神様が何かをしてくれるのを待っています。周りが何かをしてくれるのを待っています。

でも神様は「あなた」が変わることを待っておられるんです。
自分中心の目ではなく、神様中心の目で環境を見るのを待っておられるんです。

信仰の中心がずれると、受け身のクリスチャンになってしまいます。
その事を指摘して、もう一度自分の信仰を見直すことを勧めるた時にこのご婦人が言った言葉です。
「信仰は大丈夫なんですよ。」

お医者さんに行って、最近調子が悪い事を話した時にお医者さんは当然診断をして、「あなたは風邪を引いてます」「あなたは血圧が高いですね」みたいなことを言われるでしょう。

その時に、「いや、私は健康は大丈夫なんです」って言うでしょうか?
言わないですよね?(私は言いませんけど...)

でも、自分の生き方や、自分の信仰のあり方について何かを指摘されると、「いや、私は大丈夫」って頑張りたくなる自分がいるかもしれません。

「信仰は大丈夫なんですよ」...この言葉は「私は変わる必要はありません」って言う言葉です。
ちょっとひねくれた言い方かもしれないけど「あなたのアドバイスは間違ってます」とも取れます。

でもこの言葉を使い始めたら、人は成長しなくなります。成長しない所か、信仰は後退していきます。
サタンの思う壺です。

イエス様も言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
神様からの忠告として聞く耳のある者は、聞いて、受け入れなさい...そう言う意味です。
牧師や信仰の先輩、或いは信仰の友が自分の間違いや弱さを指摘して、忠告してくる時、それは単に「人のアドバイス」ではなくて、その人たちを用いて神様が語っている事を忘れないでいたいものです。

神様がその人たちを通して自分に忠告しているんだ...そう受け止めたいですね。
楽しくはないですよ。でも、良薬口に苦し...時には厳しいアドバイスが私たちは必要なんじゃないかな。

自分が聞きたいアドバイスだけを受け入れる人がよくいます。そういう人は自分が求めているアドバイスをしてくれる人に出会うまで、いろんな人に相談して回ります。

そうじゃなくて、自分が聞きたくないアドバイスであっても、それが自分を神様に近づけてくれるアドバイスであるなら...それがみことばによるアドバイスであるなら...しっかりと聞く耳をもって聞き、そのアドバイスを聞き入れたいですね。

そうすればイエス様に似た者へとまた一歩変えられていくことができるからです。
神様があなたに願っておられる姿へとまた一歩近づく事ができるからです。

あなたのためを思ってアドバイスをしてくれる人がいますか?

その人の言葉をどのように受け止めてますか?

2014年11月17日月曜日

愛されたい?愛したい?

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)

愛されたい。

これは誰もが持っている願いかもしれない。
愛されたくない...って言う人はいないと思う。
やっぱみんな愛されたい...よね。

神様に愛されたい。
家族に愛されたい。
夫に、妻に愛されたい。
あの人に愛されたい。

人の自然な願いなのかな。人は愛されないと生きていけないから。

イエス様は「互いに愛し合いなさい」って言われた。
うん、うん、だから愛してね...って思う。

教会でも、「ここは教会。クリスチャンの集まり。だからみんな愛をもって接してくれるはず」と言う暗黙の期待がある...ような気がする。

あれ?でもちょっと待って。
イエス様は「互いに愛し合いなさい」って言われたんだよね。
「愛されなさい」じゃない。

「そうそう...互いに愛し合いなさい、って言ってるんだから、あなたも私を愛してね」
どうしてもそこに行ってしまう...やっぱ人は愛されたいのかもしれない。

でも「互いに愛し合いなさい」って言う言葉を私が読む時、イエス様は私に何て語っておられるかって言うと「隣りの人にあなたを愛するように言いなさい」じゃなくて、「あなたは愛しなさい」って言ってるんですよね。

つまり、私たちは「愛される事」じゃなくて、「愛する事」にもっとフォーカスしなきゃいけない。
親子でも、夫婦でも、職場でも、学校でも、教会でも...
人に愛される事よりも、人を愛する事にフォーカスしなさい、ってイエス様は言っておられるんだ。

問題を抱えた夫婦がカウンセリングに来ると、大抵、相手がどんなに愛がないか...って言う話題で終始する。道理で問題が絶えないわけです。二人とも愛する事よりも愛される事ばかり求めてるから。

みんなが「愛する事」を心がけるようになったら、自然に「互いに愛し合う」ピクチャーが生まれてくる。
そうそう...だからあなたも...だから...そうじゃなくて...「まず私が」でしょ。

まず私が愛する事を心がけたら、私の周りには自然と愛が広がっていくんだ。
家庭でも、職場でも、学校でも、教会でも。

まずは愛される事より、愛する事を求めよう。
まずは愛される事より、愛する事を選ぼう。

人を愛する事なら私にもできるけど、人に私を愛させることは私にはできないから。

そして愛したら...愛のお返しを求めるんじゃなくて、ただ、ただ、愛し続けよう。
それが「互いに愛し合いなさい」と言う戒めに従う姿だから。
それが「互いに愛し合いなさい」を実現させるために私にできる唯一の事だから。


愛する事と愛される事...あなたはどっちを求めていますか?

2014年11月13日木曜日

へりくだると言う事

わたしが目を留める者は
へりくだって心砕かれ
わたしのことばにおののく者だ。
(イザヤ66:2)

日本人は「謙遜」が好きですね。

ある先生が言っておられた話を思い出します。

牧師: 「Aさん、これをこの紙に書いてくださいますか?」
A: 「いや、私、書くの下手だから...」
牧師: 「そうですね」
Aさんはえらく怒ったそうです。

できるのに「できない」と言う。
これは「謙遜」ではありません。

賜物が与えられているのに「できない」と言う。
これはむしろ賜物を与えてくださった神様に失礼な態度じゃないかな...と思うんですよね。

神様はへりくだった者に心を留められます。

でも、同時に賜物を十分使って仕える事を喜ばれます。
堂々と確信をもって、喜びをもってみことばを語ることを喜ばれます。
私が信じてるイエス様は最高です!って自慢する事を喜ばれます。

日本人的に言うとこの姿は「謙遜」ではないような気がします。
じゃ、「へりくだる」ってどういう事?

聖書的に「へりくだる」と言うのは、「神様の前でへりくだる」と言う事です。

全能の神様を神として認め、その前に「私は罪深い者です」とひれ伏す事です。
神様の主権を認め、神様が自分の主、自分の王であることを認め、「私はあなたのしもべ。あなたに従うのみです」と明け渡す事です。
神様がなされる事が自分の願った通りでなくても、思った通りでなくても、喜んで受け止める事です。
神様に自分の願いをゴリ押しするのではなく、神様の御心を求め、御心に従う事です。
人の目を気にせず、神様のみことばに従い通す事です。

パウロの手紙を読むとこの事がよくわかります。
パウロの手紙を読んでいると、パウロは全然「謙遜」(人間的な意味で)ではないですよね。
厳しいし、人々の罪をはっきり指摘してるし、しまいには「私を見習ってください」なんて言ってるし...

でも、彼ほど神様の前に謙遜な使徒はいませんでした。
神を神として認め、自分は神様のしもべであることを十分認識していたから...

モーセにしても、エリヤにしても、バプテスマのヨハネにしても...人間的な意味では全然謙遜ではなかったです。

でも彼らはみんな、神様の前にへりくだり、心砕かれた者たちだったんです。
神を神として認め、その前にしもべとしてひれ伏し、従い続けたから。


こういう風にへりくだって生きたいものですね。

2014年11月9日日曜日

祝福はあなた次第

あなたがたあなたの神、主の御声に聞き従うので、
次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
(申命記28:2)

神様の愛は無条件の愛です。
私たちがどんなに汚れていても、罪深くても、愛し続けてくださる愛です。
ローマ8:39でも、どんな物も「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」って書いてあるし...

これは本当に最高ですね。ハレルヤ!

でも、愛してくれてるからって言って、いつでも何でも祝福してくれるわけじゃない。
私たちは時折...と言うか結構、この二つを混同してしまっているような気がする。

神様は私たちを無条件で愛してくださっている。だから無条件で祝福してくださるんだ。
そう思ってたりするんじゃないかな。

「神様は私を愛してくれているのにどうしてこんな苦しみに合わせるの?どうして祝福してくださらないの?」ってよく耳にします。

もちろんいろんなケースがあるから一概には言えないけど、神様そっちのけで自分勝手な生き方していながら「無条件の愛による自動的祝福」を期待している人が結構いるよね。

でも聖書を読んでると、神様は何回も、何回も、しつこいくらい「あなたが従うなら祝福するよ」って言っておられる。

冒頭の箇所もそうだし、2歴代誌16:9にも「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」って書いてある。

イエス様も同じことを言われたよね。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」(マタイ7:21)

祝福は神様に従う者に注がれる...これが聖書的祝福の公式です。
神様を信じるなら祝福される...のではなくて、神様に従うなら祝福される...なんです。

考えてみると確かに、イエス様信じてます~って言いながら、勝手な事ばかりして「祝福してください」ってのはあまりにも虫が良すぎるような気がしませんか?

「旅行に行くから日曜日教会に行けないんだけど、旅行が祝福されるよう祈ってください。」
「日曜日、仕事の面接があるので、祈ってください。」
「あまり勉強してないんだけど、試験でいい点が取れるよう祈ってください。」

よくある祈祷課題です。

でも、神様の前にやるべき事をせずに祝福を求めてもそれはちょっと無理かも。ちょっと虫が良すぎるよね。

神様からの祝福は「クリスチャン」に注がれるのではなくて、「従う者」に注がれます。

自分がやりたい事があってもそれよりも神様に従う事を選ぶ時、神様は祝福してくださるんです。
人がいい顔しない、ってわかっていても、それでも神様に従う事を選ぶ時、神様は祝福してくださるんです。

自分が愛される事、自分が祝福される事、自分が恵まれる事...そんな「自分、自分、自分」じゃなくて、自分が神様のためにできる事に目を向けて、神様に従う事に心を注ぎ込む...そしたら祝福は求めなくてもついてくるんです。

シンプルなんだけど...「欲」があるから難しく感じるんだろうなぁ。


祝福に満ちたクリスチャンライフ、送りたいですね。

2014年11月6日木曜日

試練と誘惑

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:3)
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。(ヤコブ1:14)

試練と誘惑...両方ともとても身近ですね。毎日の様に試練があり、毎日の様に誘惑があります。
両方ともあまり嬉しくないものですね。試練は無い方が楽だし、誘惑は困るし。

でもヤコブは1:2で「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」って言ってます。
そんなぁ...無理やぁ...って思う。試練を喜ぶなんて...あり得ない...って思う。

でも試練はいいものだ...ってヤコブは言うんです。1:12でも「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

って事は試練は私たちを神様の方に引っ張ろうとするものなんだ。

それに対して誘惑は...私たちの欲が引っ張るもの。そして1:15には「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」って書いてある。つまり、良くは私たちを神様から引き離そうとするものなんだ。ま、当たり前か。

ところで、「試練」と「誘惑」ってギリシャ語では同じ言葉が使われてるのを知ってますか?めっちゃ興味深い事です。「なんで?」って思います。全然違う性質の物なのに...なんで同じ言葉なんだろう?

霊的に想像してみると、試練は聖霊とか御使いが与え、誘惑は悪魔が与えてる...みたいなイメージが浮かびます。

でも現実的に考えてみると、一つの出来事の中に必ずと言っていいほど、「試練」と「誘惑」が混在してるんじゃないかな。

言い換えるなら、一つの出来事に直面した時に、私の右肩の上で聖霊が私にささやき、私の左肩の上で悪魔が私にささやいている...そんなピクチャー。

例えば、交通事故に遭った時、聖霊は「これも神様のご計画の中で起こった事。神様を信頼し続けなさい。」とささやきます。この声に耳を傾けるなら、私の心は神様に向き、事故の中でも神様に近づいて行くことができる。つまり、この事故は信仰の試練になるわけです。

でも、同じ事故の中で悪魔もささやくんです。「神様、君の事愛してるとかなんとか言ってる割には守ってくれなかったね。ひどいね。実は神様なんていないんじゃないの?」 この声に耳を傾けてしまうなら、私の心は神様を疑い、神様を離れて行っちゃう。この事故が誘惑になるわけです。

買い物してても同じ。

欲しい物があった。その時に聖霊が「それ、本当に必要?その分神様にささげられるんじゃない?」ってささやき、悪魔が「おぉ!ずっと欲しがってたじゃん。買っちゃいなよ。献金?また今度すればいいじゃん。」ってささやく。試練と誘惑が同時発生してるんですよ。

どんな事でも同じ。常に聖霊が私の心を神様に向けようとささやき、その横で悪魔が私の心を神様から引き離そうとささやいてる。

聖霊の声に耳を傾けるなら、それは試練となって私を神様の方に引っ張っていってくれる。
でも悪霊の声に耳を傾けるなら、それは誘惑となって私を神様から引き離していく。

要は私が誰の声に耳を傾けるか...それ次第でその出来事が「試練」にもなり、「誘惑」にもなるわけです。

そう思うと、聖霊の声に耳を傾けて「試練」に遭うなら、それを喜びなさい、ってのもなんとなくわかる気がするよね。


今日、誰の声に耳を傾けますか?

2014年11月4日火曜日

神様のスタンダード

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そしてそこから入って行く者が多いのです。
いのちの至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。
(マタイ7:13-14)

僕の母がクリスチャンになる前、何かあるごとに「信じなさ~い、信じなさ~い、信じる者は救われる~」とふざけて言ってたものです。(どうしてあんな事言ってたのかは全然覚えてませんが)

信じるだけで救われる。
神様はどんな人をも愛をもって受け入れてくださる。

神様って素晴らしい。

うん、うん、その通り。

でも同時に「神様の救いのスタンダードはめっちゃ低い」って言うイメージを受けません?
だって、信じるだけでいいんだもん。誰でもOKなんだもん。

でも本当にそうなのかな?

イエス様は「狭い門から入りなさい」って言われた。
以前、狭い門ってのはイエス様の事だと思ってた。イエス様だけが道だから。いろんなアイディアが出回ってる中で、イエス様を信じる人だけが救われるから。そういう意味の「狭い門」だと思ってた。

ま、確かにそうなんだけど...

文脈を見てみると、この後、「実によってその気が良い木か悪い木かを見分ける事ができる」と言う事をイエス様は語っておられる。(15-20節)

そしてその後の21節では「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」って言ってる。

そして更にその後の24-27節では岩の上に家を建てる、と言うたとえを用いて神様の事を聞いてそれを行なうことの大切さを語ってる。

って事は...「狭い門」って言うのはただ単に「イエス様」ではなくて、「イエス様を信じて、そのみことばに従う」って言う事なんだ!

へぇ~~~なるほど~~~感動~~~。

前にも書いたけど、信じるってのはただ単に「私、イエス様を信じます~~」って言って教会に行くことではなくて、イエス様を愛し、イエス様に従うことなんだよね。

そう思って聖書を読んでみると「従う事」の大切さが繰り返し語られてる。
それが「狭い門」であって、何よりも大切な事だから。
それが神様が私たちに願っておられる事だから。

イエス様は私たちのために真剣に十字架の道を歩まれ、ご自身をささげてくださった。
だから私たちもイエス様のために真剣に聖書に書かれている一つ一つに取り組んでいかなきゃ...イエス様に申し訳ないよね。

「信じるだけでいい」って言うと、神様の救いのスタンダードはとても低く見えるけど、実はこの「信じる」って言う言葉は決して低いスタンダードではないんです。

神様の救いのスタンダード...それは信じて、愛して、従い続けると言う事。
世界中のクリスチャンに知っておいて欲しい、とても大切な事です。


あなたは狭い門をしっかり通っていますか?