2016年10月8日土曜日

あまり考えたことのなかった聖餐式の本当の目的

わたしを覚えてこれを行ないなさい。
(ルカ22:19)

聖餐式って...
      退屈
      暗い
      お葬式みたい

長い間、僕はそう思ってました。

聖餐式は「聖礼典」と呼ばれている、聖い儀式。クリスチャンになったら参加できる儀式。十字架についてお決まりの内容を聞かされて、厳かともしんみりしたとも言える静かで何となく思い雰囲気の中で行う儀式。なぜか月1回やる儀式。

でも「なぜ」やるのか、「なんのため」にするのか...考えた事がなかった。
強いて言えば「イエス様がしなさい」って言ったから。

それだけ?...もちろんイエス様がしなさいって言う事をするのは大事だけど...もっと意味ないの?

実は、聖餐式は僕たちの信仰にとって、欠かすことのできないものなんです。
僕たちの信仰にとって、めちゃくちゃ大切なことなんです。

イエス様は僕たちのために十字架で死んでくださいました。
自分勝手で自己中心でどうしようもない僕たちの罪が赦されて、僕たちが神様の所に立ち返って、神様と共に歩む事ができるように、ムチでズタズタにされて、釘で刺し通されて、十字架に吊るされて、苦しんで、苦しんで、死んでくださいました。

その愛の大きさに心打たれて...こんなにまで愛してくださってるイエス様を私も愛していこう、って信じたんですよね。

でも、私たちの心にはまだまだ罪の性質が残ってる...まだまだ自己中心な部分が残ってる。
だから毎日のように、心がイエス様から離れてしまう。毎日の様に自分が王様になってしまう。

聖餐式はそんな私たちの心をもう一度十字架に引き戻してくれる時なんです。
十字架の前にひざまずいて、僕のために苦しんでおられるイエス様を見上げて、もう一度その愛をもう一度受けて、確認して、「この愛の故に僕は信じたんだ。この方のために僕は生きるんだ。」って...

多くの教会では聖餐式は月1回です。でもイエス様が弟子たちに言われたのは、食事の時にパンを取るたびに、杯を取るたびに、「わたしを思い出して食べ、飲みなさい」って事だった...つまり、僕たちは毎日十字架の前にひざまずく必要があるんです。

聖餐式はマンネリ化している信仰をもう一度リフレッシュさせる時です。
聖餐式はイエス様から離れてしまっている心をもう一度十字架の愛に向ける時です。
聖餐式はイエス様の愛をもう一度確認して、イエス様への愛をもう一度確認する時です。

聖餐式でパンと杯をいただく時、こう祈ろう。
「イエス様、私はあなたを愛して、あなたのために生きます!」


そして毎日...毎朝がいいかな...パンと杯こそないかもしれないけど、十字架の前にひざまずいて同じ祈りをして一日を始めよう。

2016年9月13日火曜日

世界の初めからの神様の願い

神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。
「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」
(創世記1:28)

神様が全世界を造られた時、神様は人をも造られました。男と女とに人を造られました。
そして人を造られた時、言われました。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」

これはオリジナル大宣教命令です。

ハ????

何言っとるんや、こいつ???

と言う前に、まぁ、ちょっと聞いて(と言うか読んで)ください。

この時点で人は全く罪のない存在でした。罪が入る前ですから。
つまり、この時点での人は、神様を愛し、神様を拝し、神様に従うものでした。
命令されなくても、自然に神様を愛し、神様を拝し、神様に従う事ができたんです。
そのように造られたわけですからね。

そんな「完璧で、罪が無くて、聖い」人間に「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」と言われている...つまり、神様を愛し、神様を拝し、神様に従う人間がこの地上を満たすように、と言う神様の思いが詰まった言葉です。

今の世界は罪の世界です。今の人間は罪人です。
そんな「今」の頭で読むと、ピンと来ないかもしれません。だから、この箇所は大抵の場合は人が増え、広がるように...ぐらいにしか説明されていません。

でも、実はこの箇所は神様を愛する人たちでこの世界が満たされるように、と言う神様のとてつもなく素晴らしい気持ちが込められている箇所なんですね。

これを今の...罪人だらけの罪の世界に住む私たちに当てはめるとどうなるでしょう?

罪人だらけの罪の世界に、神様を愛し、神様を拝し、神様に従う人が増えるように。
罪人だらけの罪の世界を、神様を愛し、神様を拝し、神様に従う人が満たすように。
と言う事になりますね。
そのために私たちに何ができるでしょう?

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。 
(マタイ28:19-20)

人々にイエス様の事を伝え、神様を愛し、神様を拝し、神様に従う人が増えますように。
私の隣りにいる人が...私の家族が...私のクラスメイトが...私の同僚が...イエス様を信じて、イエス様を愛し、イエス様を拝し、イエス様に従う人へと変えられますように。

これは世界の初めから変わらない、神様の切なる願いです。神様の唯一の願いと言ってもいいでしょう。

この神様の願いをしっかりと受け止めて、私も同じ願いを持つことができますように。

そして神様の願いを、まず私の周りで、一人ずつ実現していくために、イエス様の事を伝えていく事ができますように。

2016年9月11日日曜日

一番シンプルな弟子訓練

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
(マタイ28:19-20)

もう一つ、大宣教命令から...

イエス様は「弟子を作りなさい」と言われました。
弟子ってどういう人の事でしょう?

バプテスマを受けている人。(つまり、マジでイエス様を信じている人)
イエス様が命じた事を守る人。(完璧さ...ではなくて、マジで守ろうとしている人)

ちまたでは弟子を作るためにいろんな事がなされています。
弟子訓練コース、弟子訓練の学び、メンタリング、スモールグループ、等々。

どれもこれも役に立つツールなのかもしれません。
でもどれもこれも、やれば弟子になれる、と言うわけではありません。

どうしたら最も確かな方法で、しかも最もシンプルに弟子になれるでしょう?

それは「伝道する事」じゃないかな...と最近思わされています。
ただ伝えればいい、と言うのではなくて、この人をイエス様に導こう、と心から願って伝道する事です。

例えば、僕が太郎くんにイエス様を知って欲しい!と願う時...もちろんイエス様の事を伝えます。
まずは太郎君を教会に誘うでしょう。

でも、太郎君がやっと教会に来てくれた時に僕が用事があるからと言って休んでいたら??
全然いい証しにならないよね。だから僕は毎週教会にいくようにしている必要がある。

やっと太郎君が教会に来てくれた時、僕が礼拝中居眠りしてたら...あくび連発してたら...全然楽しそうにしてなかったら...やっぱりいい証しにならないよね。太郎君はもう二度と来てくれないかもしれない。

って事は日頃から僕はただ教会に行ってるだけじゃなくて、心から賛美し、礼拝するよう心がけてなきゃいけない。
太郎君とお茶したり、遊びに行ったりする時の言動も同じ...いい証しになるように心がける必要がある。でもその時だけ繕っていると必ずボロが出るよね。つまり、日頃から常に神様に喜ばれる態度で過ごそうって心がけてなきゃいけない。

伝えれば伝えるほど、太郎君はいろいろ質問してくるかもしれない。必ずしも答えられるとは限らない。するともっと聖書を学ばんで答えられるようにしていてあげたいよね。

こうしてまじで伝道して行く時、僕は教会生活においても、日常のクリスチャンとしての態度にも、聖書を学ぶことにも、奉仕することにも...とにかくすべてにおいていい証しになれるように心がけるようになる。

すると...とても自然な形でイエス様の弟子として歩むようになっているんじゃないかな。

部屋の中で弟子訓練クラスを受けていても、学んだことを実践していかなければ、弟子にはなれない。
スモールグループも、メンタリングも同じ。

でも心から「この人にイエス様を信じて欲しい」と願いながら伝道していくなら、それが私をイエス様の弟子の姿に変えて行ってくれるんだ。


是非お試しください (*’’)

2016年8月9日火曜日

今しかできない事

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
(マタイ28:19-20)

これはイエス様が地上を去る前に言い残された言葉です。いわば「遺言」と言ってもいいでしょう。

最後の最後に言い残す事...どうでもいい事は言いませんよね。「これだけは忘れないで」と言う大切な、大切な事を言い残すはずです。

イエス様のこの言葉も同じです。私たちに「これは何よりも大切なことだからね」と言い残されたんですね。
一言で言うなら「弟子を作りなさい」です。同時にこれは「伝道しなさい」と言う事でもあります。伝道は弟子づくりの第一歩ですからね。

僕は牧師になる前、ずっと伝道を避けていました。苦手でした。イエス様の事を伝えて「No」と言われたら、何て言えばいい?と思うとできなくなってました。

その代りと言ってはなんですが、他のいろんな奉仕を一生懸命してました。教会のイベント企画、賛美、土曜礼拝のメッセージなどなど。

でもそんな僕を神様は「教会開拓」と言う働きに押し出されました。最初は神様のいやがらせかと思いました(笑)。
開拓をしていると、伝道をしなければなりません。伝道しないと開拓はすすみませんからね。苦手分野でありながらも一生懸命やりました。

一人救われ、二人救われ...救われる人が起こされるうちに段々、伝道がやめられなくなっている自分に気づきました。「得意」とは違います。基本的に内向的なので、知らない人に声をかけて伝道する...なんてことはしません。

でも知り合った人、教会に来た人にはどんどんイエス様の事を伝える事ができるようになりました。その中で、イエス様を信じる人もいれば、信じないで来なくなる人もいます。

でも、イエス様が語っても去る人はいっぱいいましたからね。イエス様以上の事が僕にできるわけがない...そう思うと肩の荷が軽くなりました。僕の責任は信じさせることではなくて、伝える事。

で...ふと思ったんです。伝道って今しかできないんだよね。
今、この地上で生きている間にしかできないんだよね。

賛美は天国でもできる。天国では一日中賛美してるんだ。
奉仕は天国でもできる。毎日イエス様に仕えるようになるんだ。
交わりも天国でできる。永遠にイエス様との交わりの中にいるんだ。

でも伝道は...今しかできない。この世の終わりにイエス様がやって来られるまでしかできない。
今伝道しなかったらいつやる?

今やらなかったら...イエス様が来られるまでにやっておかなかったら...どんなに後悔しても天国ではできないんだ。

だからイエス様は最後の最後に「神を賛美しなさい」じゃなくて、「神に仕えなさい」じゃなくて、「神を伝え、弟子を作りなさい」って言われたのかもしれない。今しかできない事だから...今やらなきゃいけない事だから。

苦手な人もいると思う。僕もそうだった。
でも勇気出して、恥ずかしがらないで、やってみよう。

やりたくてもやれなくなる日が来る前に。

2016年6月15日水曜日

フロリダのゲイバー乱射事件にまつわって

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。~神である主の御告げ~
彼がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ばないだろうか。
(エゼキエル18:23)

フロリダのゲイバーで乱射事件があり、49人が命を落とした。アメリカでも最悪な乱射事件の一つとなる、大参事です。

ニュースやインターネットでも男性カップルが抱き合って泣いている写真が見られます。

さすがに誰も口に出したり、インターネットに投稿したりしていないようだけど、複雑な心境になっているクリスチャン、この出来事をどう解釈していいのかわからないで困っているクリスチャンもいるんじゃないかな...と思う。

同性愛がはびこっていたソドムとゴモラは滅ぼされた...それを思い出した人もいるかもしれない。

確かに同性愛は罪。その同性愛者が集まるゲイバーでの大参事...「神様の裁き?」と思った人もいるかもしれない。

確かに聖書ははっきりと同性愛は罪であると言ってます。(ローマ1:27)

でも、ギャンブルも罪でしょう?なのにラスベガスではこんな参事は起きてません。
嘘をつくのも罪でしょう?
献金をしないのも罪でしょう?
神様を第一にしないのも罪でしょう?

罪を犯しているから裁かれるなら、私たちみんな神様から裁かれなきゃいけないんじゃないかな。

同性愛は他の罪と比べて「ひどい罪」でも「大きい罪」でもない...同じ罪です。
嘘をつくのと同じ罪です。
献金をしないのと同じ罪です。
神様を第一にしないのと同じ罪です。

今のクリスチャン社会において、同性愛とか浮気とか同棲とか結婚前のセックスとかオナニーとか「性的な罪」は特別ひどい罪...ってみなされているような気がするけど、それって聖書的じゃないよね。

他のすべての罪も同じ罪なんだ。
性的な罪を「ひどい罪」とする時、私たちは無意識のうちに他の日常的な罪を「大したことない罪」としてしまっているような気がする。

神様の前において、すべての罪は同じ「罪」であることを忘れちゃいけない。
罪人に対する神様の思いがエゼキエル書に書かれています。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。~神である主の御告げ~ 彼がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ばないだろうか。 (エゼキエル18:23)

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。~神である主の御告げ~ だから、悔い改めて、生きよ。 (エゼキエル18:32)

更にこうも言われています。
主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束の事(裁き)を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。 (2ペテロ3:9)

神様はまだ、罪人を裁かれる事はなさいません。むしろ裁かれて欲しくないんです。そして彼らが裁かれないように...一人でも多く悔い改めて神様に立ち返って欲しい、と切望されているんです。

今回の事件は人の持つ罪が招いた大参事です。大悲劇です。

クリスチャンである私たちは、まず「泣く者とともに泣く」者でありたいですね。(ローマ12:15)

そして一人でも多くが裁きの日が来る前にイエス様を信じる事ができるように伝えていきたいものです。

2016年3月31日木曜日

言いたい事を言える関係

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。
ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
(エペソ4:29)

言いたい事が言えない関係って淋しい。
そう思った事ありませんか?

日本は「本音と建前」の社会です。人間関係をきれいに見せるために「建前」を並べて、なかなか本音を言わない...そんな淋しい社会。

だから「もっと本音で話し合える友達が欲しい」って思うのかもしれない。
特にクリスチャンになったら「建前って偽りじゃん」って思うのかもしれない。

「主にある家族と言いながら、みんな全然本音で話してない...きれいごとしか言わない...こんなの家族じゃない。」って言われた事があります。確かに...そう言われてみると、そうかもしれない。

でもね...ちょっと考えたんです。
「本音で話す」って格好良く聞こえるけど、みんながそれを始めたらどうなるかな?

ある人がこんな事を言ってました。「教会は赦しの場所なんだから、何言ってもいいんですよ。」

え?まじ?
それって「神様赦してくださるんだから、罪を犯していいんですよ」って言ってるのと同じじゃない?(汗)

確かに「偽り」で飾った人間関係は所詮「偽りの関係」だよね。
でも人間関係を壊すのは多くの場合「本音」じゃない?

聖書は偽りを語らず真理を語りなさい、って言ってる。
聖書は不誠実ではなく誠実でありなさい、って言ってる。
でも同時に「人の徳を養うのに役立つ言葉を話し」なさいって言ってる。(エペソ4:29)
「愛をもって真理を語り」って言ってる。(エペソ4:15)
「愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」って言ってる。(1テサロニケ5:13)

本音でぶつかる事は時には気持ちいいかもしれない。
特にぶつけた方は気持ちいいだろう。
でもぶつけられた方は必ずしもいい気持ちはしないかもしれない。
ひょっとしたら、めちゃくちゃ傷ついてるかもしれない。めちゃくちゃ我慢を強いられてるかもしれない。

それは愛じゃなくて、本音をぶつけたい人の自己満足じゃないかな。

聖書は、そうじゃなくて、愛をもって相手の信仰の成長に役立つように、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」って言ってる。(1テサロニケ5:11)


言いたい事を言うのではなくて、相手が神様により近づく事ができるような言葉を語り、励まし合う...それが主にある家族の姿だと思う。

2016年2月9日火曜日

われら天国人 (ピリピから語られた事)

けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
(ピリピ3:20)

ピリピ人への手紙は「喜びの書」と呼ばれています。だからピリピと言えば「喜び」って言うイメージがあった。こう言う先入観的印象って怖いね...読んでいても「喜び」ばっかり気にしてるから「喜び」ばっかり探して「喜び」ばっかり目に飛び込んできちゃったりする。

去年から礼拝メッセージでピリピ人への手紙のシリーズをやってます。で、準備してたら喜びよりも大きなテーマが見えてきたんですよ。それは「天国」。

ピリピはパウロが牢屋から書いた手紙。聖書の手紙の中で最後に書かれた手紙。もしかしたらパウロ自身、自分が天国に行く日が近づいていたのを察してたのかも...

天国...って言うか、終わりの日にイエス様が来られるって言うテーマは1章から飛び出してきてる。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる事を私は堅く信じているのです。」(1:6)

2章を見ると、イエス様が人として来られ、十字架で死なれたのは「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」(2:11)

そして3章では「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のもの(天国)に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上(天国)に召してくださる神の栄冠(永遠のいのち、天国)を得るために、目標(天国)を目指して一心に走っているのです。」(3:13-14)

極めつけは3:20-21 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから、主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

で、有名な4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

これ、読むたびに「いつもって言われても...喜べない時もあるじゃん...どうやって???」って思ってた。

だって、この地上で生きている限り、思い通りに行かない事って数えきれないほどあるし、いつも神様が状況を願ったように変えてくれるわけじゃない。苦しみの中から助け出されるどころか、苦しみの中を歩き続けなきゃならない事もある。病気になって癒される事もあるけど、癒されない事もある。

地上の生活は「喜び」より「大変」なことの方が多かったりして...現にパウロだって捕まって牢屋に入れられて、いつ処刑されるかわからないわけだし...人間的に見ると全然喜べる状況じゃないよね。

でもこの地上でどんな苦しみに会う事があっても、どんなに大変でも、どんなに希望が無いような状況になっても、「天国に行ける」って言う揺るがない希望(って言うか事実)がある。

夏休み前の期末試験みたいなもんかな。試験勉強めっちゃ大変で、嫌で嫌でしょうがない。なんでこんな事しなきゃいけないの?って思いたくなる。でも試験が終わったら、そこに夏休みが待ってて、あそこに行って、あれして、これして...って思うと頑張れる。試験の向こう側に待ってる「喜び」を視野に入れて頑張れる。

それがクリスチャンの...天国人の地上での姿なのかもしれない。しかも僕らの「夏休み」は永遠に続くんだよね。それに比べたら今のあれこれなんて...。

天国を視野に入れて、いつもその事を喜ぼう。

今は大変かもしれない。今は苦しいかもしれない。今はめっちゃ嫌なことばかりかもしれない。
でも、もうすぐイエス様が迎えにきてくださって、天国に連れて行ってくださる...その日を楽しみにしながら喜ぼう。


われら天国人!