2015年4月27日月曜日

幸せってなんだっけ?

イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。
「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 これは「あなたを産んだ母親はどんなに幸いなことでしょう!」と言う意味です。イエス様があまりにも素晴らしい話をしていたので、イエス様をほめたたえるだけじゃなく、イエス様の親をもほめたたえているんですね。現代の日本ではこういう言い方はまずしませんが、当時のユダヤ人の文化ではあまり珍しくない、祝福の言葉だったようです。

ま、それはともかく...どういう人を見た時「あの人は幸せな人だなぁ」と思いますか?

事業で成功している人。自分が買えないような物を何でも持っている人。ある分野で優れた能力を持っている人。子供がまっすぐ育っている(ように見える)人。いい学校、いい会社に入った人。マイホームを持っている人。素敵な彼氏、彼女がいる人。

一般的にはこういう人が「幸せ」に見えるかもしれません。そしてそういう生き方を目指し、手に入れようと一生懸命頑張っているかもしれません。

そんなこの世のメガネで、一生懸命神様に従おうとしているクリスチャンを見たらどのように映るでしょうか?「あの人、誰よりも幸せそうだな」って思うでしょうか?皆さんの教会の牧師先生はどうですか?牧師って言うのは確かに簡単な働きではありません。でも、経済的にもっと豊かになれる仕事を辞めて、神様に一生懸命従って仕え、生きているのが牧師です(大半の場合はそうだと思います。そうであって欲しい物です。) そんな牧師の姿を見て、「先生はいつ見ても幸せそうだな」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

牧師じゃなくて、信徒であっても、家族で唯一のクリスチャンで、しょっちゅう家族から嫌味とかを言われながら頑張って信仰を貫いて生きている人はどうでしょうか?会社で唯一のクリスチャンで、価値観の違う人たちに囲まれて、それでも妥協することなくみことばに従って歩んでいる人はどうでしょうか?思い切りこの世の冷たい逆風にあおられて、辛い思いをする事もしばしば...そういう人たちを見た時に「わぁ、あの人すごい幸せそう...私もああいう生き方したいなぁ」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

イエス様は言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

この世は辛い思いをせずに生きる事ができるなら、それが幸せ...と言います。自分の気持ちが幸せの基準なんです。でもどんなにお金があって、どんなに楽しく生きていても、神様に向かって生きていないのであれば、その行き着く所に待っているのは「裁き」であり、「滅び」です。するとそれは決して「幸せ」な生き方ではありませんね。

逆にどんなに辛い思いをしていても、神様のみことばにしっかり従って生きているなら(生きようと心がけ、努めているなら)、その行き先に待っているのは永遠に続く祝福です。神様からの「良くやった。良い忠実なしもべだ」と言う最高の言葉です。

別にみことばに従うと辛い事ばかり、と言うわけではありません。もちろんそこには喜びの道も用意されています。でも、苦しみも必ずあります。何が言いたいかと言うと、嬉しい、楽しい、辛い、苦しい、と言う私たちの気持ちは幸せとは何の関係もないと言う事なんです。本当の幸せはこの世が何と言うかではなく、私がどう感じるかではなく、どこに向かっているか...誰に向かっているか...なんです。

この世の言葉に従うのではなく、自分の言葉に従うのではなく、神様の言葉を聞いて、それに従う時、私たちは幸せの道を歩んでいる事になるんです。

この世の言葉に騙されないでください。この世の考え方、価値観に騙されないでください。この世の生き方に騙されないでください。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」


あなたは今日、幸せですか?

2015年4月4日土曜日

4つの種のたとえ

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:20)

ある人が種を蒔いたら、最初の種は道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。次の種は土の薄い岩地に落ちました。するとすぐに芽を出したけれど、日が上ると焼けて、枯れてしまいました。次の種はいばらの中に落ちました。芽が出て伸び始めたけど、いばらがふさいで結局実を結びませんでした。次の種は良い地に落ちました。そこで芽生え、育って、30倍、60倍、100倍の実を結びました。

ご存知の「4つの種のたとえ」です。本来なら「4つの地のたとえ」であるはずなんですが、なぜか「4つの種のたとえ」と呼ばれています。ま、どうでもいい事ですが...。

少し後でイエス様が解説されています。「種蒔く人はみことばを蒔くのです。」(マルコ4:14)
そして4つの地はそれぞれ蒔かれたみことばをどのように受け止め、応答しているかの違いを現わしています。

道ばたはみことばをちゃんと受け入れない人たち...ただ聞くだけ、読むだけの人たちです。
土の薄い岩地はみことばを喜んで受け入れるんですが、「いいみことば!」で終わってしまうので、根を張らず、困難や迫害の中でみことばに頼る事はなく、すぐにつまずいてしまいます。
いばらの中は、みことばを聞き、理解もします。知識はあります。でも他にもっと大切な物がたくさんあるので、みことばはいつも蚊帳の外...実を結ぶことはありません。
そして良い地はみことばを聞いて受け入れ、従う人たちの事です。

多くの人は「良く知ってる」たとえだと思います。よくメッセージで「あなたはどの地ですか?」と聞かれます。そして多くのクリスチャンが「私はまだまだいばら...」とか言っていたのを思い出します。

でもこの事を知っておいてください。この4つの地で最初の3つは救われていない人の姿です。クリスチャンは良い地でなければなりません。

厳しいと思うかもしれませんが、イエス様の言葉を見てください。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10、7:19)

ヤコブも言いました。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

みことばを実行する事はとても大切です。「私は救われているから大丈夫」と言うのはサタンの嘘です。サタンはあなたにみことばを実行して欲しくないんですよ。だから「あなたは救われているんだから、無理して従わなくても大丈夫...神様は赦してくださるよ」って言うんです。

でもだまされないでください。私たちがみことばを実行する「良い地」でいる事を神様は何よりも望んでおられるんです。もちろん完璧にはできないでしょう。罪を犯してしまう事もあるでしょう。そしたら悔い改めればいいんです。罪を言い表して悔い改める事はみことば(1ヨハネ1:9)を実行している事ですからね。

私たちはみことばを実行できない時、あれこれ言い訳をするのがとても上手です。でもこのたとえはとてもシンプルに私たちの責任を教えています。

まず、みことばを蒔く人がいますね。大抵の場合、牧師だったり、バイブルスタディのリーダーだったりするでしょう。

そしてそのみことばを聞いた人がいますね。これがあなたです。その他には誰もいません。誰かがやって来て地を耕して「良い地」にしてくれるわけではありません。誰かがやって来ていばらを切り取ってくれるわけではありません。みことばを聞いた人がそのみことばをどう受け入れ、どのように応答し、実行するか...それ次第で「良い地」になるかどうかが決まるんだよ、って言う事です。

神様は完璧さを求めているわけではありません。あれこれ言い訳をせずに、みことばを受け入れて実行する姿勢を求めておられる...それがこのたとえの教えている大切な、大切な真理です。


「いいメッセージだった」「このみことば好きなんですよ」から一歩抜け出て、「これ実行してみよう」のみことば生活してみませんか?