2016年3月31日木曜日

言いたい事を言える関係

悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。
ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。
(エペソ4:29)

言いたい事が言えない関係って淋しい。
そう思った事ありませんか?

日本は「本音と建前」の社会です。人間関係をきれいに見せるために「建前」を並べて、なかなか本音を言わない...そんな淋しい社会。

だから「もっと本音で話し合える友達が欲しい」って思うのかもしれない。
特にクリスチャンになったら「建前って偽りじゃん」って思うのかもしれない。

「主にある家族と言いながら、みんな全然本音で話してない...きれいごとしか言わない...こんなの家族じゃない。」って言われた事があります。確かに...そう言われてみると、そうかもしれない。

でもね...ちょっと考えたんです。
「本音で話す」って格好良く聞こえるけど、みんながそれを始めたらどうなるかな?

ある人がこんな事を言ってました。「教会は赦しの場所なんだから、何言ってもいいんですよ。」

え?まじ?
それって「神様赦してくださるんだから、罪を犯していいんですよ」って言ってるのと同じじゃない?(汗)

確かに「偽り」で飾った人間関係は所詮「偽りの関係」だよね。
でも人間関係を壊すのは多くの場合「本音」じゃない?

聖書は偽りを語らず真理を語りなさい、って言ってる。
聖書は不誠実ではなく誠実でありなさい、って言ってる。
でも同時に「人の徳を養うのに役立つ言葉を話し」なさいって言ってる。(エペソ4:29)
「愛をもって真理を語り」って言ってる。(エペソ4:15)
「愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。」って言ってる。(1テサロニケ5:13)

本音でぶつかる事は時には気持ちいいかもしれない。
特にぶつけた方は気持ちいいだろう。
でもぶつけられた方は必ずしもいい気持ちはしないかもしれない。
ひょっとしたら、めちゃくちゃ傷ついてるかもしれない。めちゃくちゃ我慢を強いられてるかもしれない。

それは愛じゃなくて、本音をぶつけたい人の自己満足じゃないかな。

聖書は、そうじゃなくて、愛をもって相手の信仰の成長に役立つように、「互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」って言ってる。(1テサロニケ5:11)


言いたい事を言うのではなくて、相手が神様により近づく事ができるような言葉を語り、励まし合う...それが主にある家族の姿だと思う。