2014年9月30日火曜日

罪と雑草

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪い事だけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造った事を悔やみ、心を痛められた。(創世記6:5-6)

我が家の庭には雑草が生えてます。タンポポとか...名前の分からないタンポポもどきとか...。
抜いても、抜いても、生えてきます。しかもあっという間に生えてきます。

雑草は成長が早いです。芝生の成長よりずっと早いです。大抵、僕たちが植えて育てようとするどんな物より成長が早いです。タンポポなんかは一晩で花が咲きます。そして1週間もたたないうちに種(綿毛)になります。

雑草はなかなか死にません。他の花とかはちょっと水をやるのを怠るとすぐに枯れてしまったりするのに、雑草はなんの手入れもしてなくても絶対死にません。

まったく困ったもんです。

こないだ庭の手入れをしていて、ふと思いました。
罪も同じだな...と。

信仰は成長に時間がかかります。
自分の信仰を見ててもそうだし、牧師として人の信仰の成長を手伝ってもそうですが...あれこれ手をかけ、ケアーして...でも時間がかかります。

どんなに手間暇かけても枯れてしまうケースもあります。

でも、罪はと言うと、放っておいてもどんどん増えます。いや、むしろ放っておいたらどんどん増える...成長する、と言った方がいいですね。

どんなに頑張っても決して無くならない。こっちの罪を処理したら、あっちから別のが頭を出して、あっちの罪を処理したら今度は別の所から別の罪が頭を出す...モグラ叩きと言うか、タンポポ退治と言うか...

だから僕たちは意識的に、心して、一生懸命、神様の方を向き、神様の方に近づいていかないといけない。
意識して、心して、一生懸命、罪から離れ、信仰を成長させる事に専念しないといけない。

そうでないと、放っておいたら心の庭はあっという間に雑草だらけになってしまうから。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 (ヤコブ4:8)

神様、私の罪を赦してください。
そして私がもっとあなたに近づくことができますように。
私が罪から離れ、聖い生活を心掛ける事ができますように。
あなたが心を痛めるようなクリスチャンではなくて、あなたに喜んでいただけるようなクリスチャンになる事ができますように。

2014年9月27日土曜日

あなたはわたしを愛しますか?

自慢じゃないけど、神学校(大学院)で取った5つのギリシャ語の授業、オールAでした。(やっぱちょっと自慢かも...)

で...これこそ自慢じゃないけど、今はほとんどギリシャ語使ってません。

その理由は、結構忘れてしまったから...と言うのもあるけど、使ってないので忘れたと言ってもいいかも。使ってない理由は、ギリシャ語の先生の一人が「ギリシャ語もいいけど、Context is the king!(文脈が王様)」と言ってたからです。

すぐにギリシャ語を調べるより、文脈をしっかり読み取る事で大半の箇所は解釈ができるんです。

ヨハネ21章でイエス様がペテロに3回「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれる箇所があります。

ギリシャ語を読むと、最初の2回は「アガペー」が使われていて、最後の1回は「フィレオー」になってます。それに対するペテロの答えは3回とも「フィレオ-」です。

一般的にアガペーは神の愛、フィレオーは人の愛と言われています。
そこで良く聞く解釈は「イエス様は初めの2回、ペテロに『あなたは神の愛でわたしを愛しますか』と聞かれたが、ペテロの答えはどうしても『人の愛』でしかなかった。だから3回目はペテロのレベルに歩み寄って『あなたは人の愛でわたしを愛しますか』と聞かれた」と言う内容です。

う~ん...でも、聖書を調べてみるとアガペーとフィレオーは必ずしもそのような区別をして使われているわけじゃない事がわかります。人の愛を表す時にアガペーが使われてるケースもあれば、神の愛をフィレオーで表しているケースもあります。つまり、両方とも単純に「愛」を現わして使われている言葉なんですね。

実際、17節を見るとペテロはイエス様が3回も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので心を痛めた...って書いてある。つまり「愛しますか」の内容が変わったから心を痛めたんじゃなくて、3回同じ質問をされたから心を痛めた...そう書いてあるんです。

って事は、この3回の質問は同じ質問なんです。ペテロは3回イエス様を否定した。だからイエス様は3回ペテロにイエス様への愛を告白する機会を与えてくださった...これはイエス様の赦しの愛の会話なんです。

もう一つ注目したいのは、イエス様への愛を告白したペテロにイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。これも言い方こそ微妙に違うけど、同じことを言ってるにすぎません。

ポイントは、ペテロがイエス様への愛を告白した時、イエス様はペテロに使命を与えられたと言う事です。「わたしを愛するなら、わたしのためにしてほしい事があるんだよ」と言う事です。

「イエス様、あなたを愛します!」と口で言うのは簡単です。「I love you~」と賛美するのは簡単です。でも言って終わり、歌って終わり...ではなくて、その愛によってイエス様のために生きる時に初めてイエス様を愛していることになるんですね。

これは夫婦でもそうでしょう。どんなに口先で「愛してるよ」と言っても、その愛を行動で表現しなければ愛している事になりません。(そうです...経験から語ってます...笑)

同じようにイエス様を愛するなら...そう思うだけじゃなくて、そう祈るだけじゃなくて、そう歌うだけじゃなくて...イエス様のために生きるようになる...イエス様のために何かをする者となる...言い換えるなら、イエス様に仕える者となる...それがイエス様が求めておられる「愛」なんです。それが本当の「愛」なんです。

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛する事をせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:18)

あなたはイエス様を信じていますか?あなたはイエス様を愛していますか?
両方とも答えが「はい」なら...あなたはイエス様のために、イエス様に仕えるライフスタイルを送っていますか?

2014年9月21日日曜日

熱くもなく冷たくもない信仰

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

これはラオデキヤの教会に書き送られた手紙です。

昔、バイブルスタディでこの箇所を学んでいた時に、「熱い信仰」と「冷たい信仰」についてああでもない、こうでもない、と話し合った結果、「熱い信仰は熱心な信仰。冷たい信仰はまったく冷め切った信仰」と解釈していたのを思い出します。

つまり、神様は私たちにめちゃくちゃ信じるか、全く信じないかのどちらかであって欲しい。中途半端は嫌われる...と。

でもなんかちょっと無理があるような...だって神様は私たちに「まったく信じない」事を望まれるはずがないですからね。

それに「まったく冷め切った信仰」を「信仰」と呼んでしまうのはちょっと無理がありますね。

なんとなくわかる気がしないでもない解釈ですが、「無理」を感じさせる解釈はやっぱどこかずれています。

これは地理的な背景を知っておくととても意味が見えてくる箇所なんです。


ラオデキヤの近隣都市、ヒエラポリスでは熱い温泉が湧いていました。人々はその温水を病気の治療などに使っていました。

一方、もう一つの近隣都市、コロサイでは冷たい天然水がわいていました。旅人はその水を飲んで疲れを癒し、力を得て、旅を続けました。

でもラオデキヤには水源がありません。そこでヒエラポリスとコロサイからそれぞれ水を引いてこなければなりませんでした。

ヒエラポリスで人々を癒していた温泉水ですが、ラオデキヤに引いてきた時には当然なまぬるくなっています。そしてコロサイで旅人を力づけていた天然水も、ラオデキヤに着くころには生ぬるくなっていました。

ヒエラポリスの「熱い」水は人々を癒す効力を持ち、コロサイの「冷たい」水は人々を力づける効力を持っていたのに対し、ラオデキヤの「なまぬるい」水は何の効力も持っていなかった...そんな背景の中でこの手紙は書き送られているんです。

つまり、「熱い信仰」と「冷たい信仰」は人々にポジティブな影響を及ぼしていた「生きた信仰」を指していおり、「なまぬるい信仰」は人々に全く何の影響ももたらさない「死んだ信仰」を指しているんです。

これを知った時は、いやぁ、感動しました!!(笑)

私たちの信仰はどうでしょうか?
周りの人をイエス様に近づける影響力を持っているでしょうか?
周りの人を励まし、力づける影響力を持っているでしょうか?

「私は救われてます。ハレルヤ!!」と自分一人で満足してる信仰になっていないでしょうか?

Be contagiousと言った人がいましたが、まさに「伝染する信仰」を持ちたいものですね。

2014年9月18日木曜日

タラントのたとえ

牧師になってから気づかされた「え?これこういう意味じゃなかったの?」って言う事を分かち合いたいな...と。決して偉そうに人を裁いているわけではなくて、聖書の正しい意味をシェアしたい...それだけですのでよろしく (^_-)-☆

タラントのたとえ(マタイ25:14-30)のメッセージを聞くと、9割が「賜物について」語られていますね。僕も信徒だった頃、そう教えられ、そう信じてきました。

これっていつ、どこで、どうやって「賜物」になったんだろうね。
恐らくアメリカからなんだろうな...(笑)

って言うのは英語でtalentって言う言葉は「能力」と言う意味があるから、ごく自然に「あ、これは賜物について言ってるんだ」って思うわけです。

でも、聖書はもともと英語で書かれたのではないと言う事を思い出そう。
当時、「タラント」と言うのは何だったか考えよう。

「タラント」は当時の貨幣価値です。つまり、今で言うなら「ドル」とか「円」ですね。
そう思って読んでみると、「なんで賜物なの?」と不思議に思えるのも不思議じゃないかも。

解釈の鍵となるいくつかのポイントがあります。

1. 2人は託された「タラント」を使って増やした。その結果ほめられた。もう一人は託された「タラント」を使わず、増やさなかった。すると取り上げられた。

2. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられてしまった。

3. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられた挙句、外の暗やみに追い出されて、そこで泣いて歯ぎしりしていた。

この「外の暗やみに追い出されて泣いて歯ぎしりする」と言う表現は聖書ではどこを見ても、救いから漏れてしまう、と言う意味で使われています。つまり、タラントを使わず、増やさなかった人は救いからもれてしまった...と言う事です。

賜物を使わなかったら取り上げられる、賜物を失ったら救われない...いずれもおかしいですね。

長くなるので詳しくは書きませんが、これを統合して考えると、「タラント」は「信仰」であることがわかるんです。

信仰は使って増やすもの...言い換えるなら、信仰は成長するべきもの。
それがこのたとえのポイントなんです。

イエス様を信じているなら、ただ「信じてます」って言って何もしないのではなくて、その信仰をどんどん使って成長しなさい。

5タラント託された人は、5タラントなりに成長しました。
2タラント託された人は、2タラントなりに成長しました。
1タラント託された人も、1タラントなりに成長できたはずなんだけど、成長しませんでした。

使わず、成長しないならそんな信仰は「死んでいる」とヤコブ2章でも言われてますよね。

つまり、使わず、成長しない信仰は無いに等しい...そんな信仰では救われない...だからちゃんと使って成長してね...とイエス様は言ってるわけです。

ヤコブ2:14、17、20、26を読んでみるともっとわかるかも。

信仰は使えば必ず成長します。
人それぞれ、スピードや程度には個人差があるけど、使えば必ず成長します。

信仰を使うって事は...「イエス様信じてるから...イエス様愛してるから...イエス様のために何かしよう」って事です。

礼拝はもちろん、他の教会行事に参加しよう。
バイブルスタディしよう。学んだことを適用しよう(これが大事)。
奉仕しよう。
伝道しよう。
とにかくクリスチャンとして生活しよう。

そしたら必ず成長するよ!!


2014年9月12日金曜日

これくらい大丈夫

これくらい大丈夫

これくらい大丈夫...って思う事よくあります。

昨日、庭のニワトリ小屋に黒いネズミが出入りしているのを見かけて、急いで追いかけた時に足を軽くひねってしまいました。でも、すぐに痛みが引いたので、

これくらい大丈夫

と思って、普通に過ごしていました。

ところが、夜中に痛みで目が覚めて、そのままなかなか眠れず(少し寝ましたが)...朝起きたら普通に歩けないくらい痛い。病院に行ったら「靭帯が伸びちゃってるんでしょう。しばらく無理をしなければ治りますよ。」と言われた。

これくらい大丈夫

のはずが、後になって全然大丈夫じゃなくなってしまいました。

結局これのお世話になるはめに...

別になくても歩こうと思えば歩けるんだけど...使った方が動きやすいし、足に無理がかからないので、家の中でははいてようかな...と思います。

食べ物でもありますね。

これくらい大丈夫

と思って食べてたら、体重計の数字がカウントダウンならぬカウントアップになってしまう事...。

これくらい大丈夫

これほど恐ろしい言葉は無いのかもしれません。

罪も同じです。

これくらい大丈夫

と言ってちょっとした罪を気にせずに続けていたら、ある日、神様から遠く離れてしまっている自分に気づくでしょう。

これくらい大丈夫


これは実はサタンの囁きなのかもしれません。

エデンの園~あるべき姿

こないだ、荒野の旅のストーリーが好きです、って書きましたが、エデンの園も大好きです。
って言うか、創世記1~3章大好きなんです。

大切な聖書の教理がぎっしり詰まっているから。
神様と人との関係の原点がそこにあるから。

エデンの園は神様が初めに造った人、アダムとエバを置かれた場所です。
エデンの園は神様が初めに造った「人間界」です。
そこには本来あるべき姿があるんです。

本来あるべき人の姿。
本来あるべき神様と人との関係。

つまり、私たちがクリスチャンとしてどうあるべきか...それがエデンの園にあるんです。

別に裸でいるとかそういう事ではありませんよ。(笑)

エデンの園には神様が、人に必要な物のすべてを備えてくださっていました。(創世記2:9-14)
エデンの園では神様が「これをしなさい、あれをしなさい」と言われ、人は純粋にそれをしてました。(創世記2:15)
エデンの園では神様が「これはしてはいけない」と言われ、人は純粋にそれを守っていました...罪が入ってすべてが崩れるまでですが...(創世記2:16-17)
エデンの園では神様と人が常に交わりを持っていました(創世記3:8)

これが本来の人の姿...人と神様の関係です。

でも、罪が入って、すべてが狂ってしまいました。
人は神様が言う事に対して「でも...」「だって...」「やだ」と言うようになりました。
逆に人が神様に対して「これして」「あれして」「もっとちょうだい」と言うようになりました。
神様との交わりが途切れました。

イエス様を信じて救われるって事は「天国に行けるようになる事」って言うよりは「エデンの園状態に戻る事」なんじゃないかな、って最近思わされてます。

つまり、神様ともう一度つながって、神様が「これしなさい、あれしなさい、これはしてはいけない」って言われる事は純粋に行なって、神様との交わりの中で生きる...って事。

俗に「従う」って言う言葉を使うもんだから私たちは抵抗を示しちゃうけど、これが本来の私たちのあるべき姿なのであって、抵抗を示すって事はまだまだ自我にしがみついていて、エデンの園に戻りたがらない自分がいるからなのかもしれない。

むしろ、本来のあるべき姿に戻ろう...って言う思いで「従う」って言う事を受け止めたら、もう少し抵抗が減ってくれるかも...だって、エデンの園は文字通り平和で、争いが無くて、神様の愛と恵みと祝福があふれていた、輝かしい場所だったから...そこに戻れるなら最高じゃん。

そのためにイエス様が十字架で苦しんで死んでくださったんだから...


神様、今日一日、昨日よりも一歩エデンの園状態に近づくことができますように。

2014年9月6日土曜日

荒野の旅

あなたの神、主が、この40年の間、
荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、
あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
(申命記8:2)

僕、荒野の旅のストーリーが大好きなんですよ。
どうしてかって言うと(小学生みたいな言い方ですが)...

荒野の旅は僕たちの人生を描写しているから。
荒野の旅を理解すればするほど、人生がわかるから。

イスラエルはエジプトでの奴隷生活から救い出されて、約束の地に向かいます。
約束の地への通り道が荒野の旅です。

僕たちは罪に縛られていた生活から救い出されて、天の御国(天国)に向かいます。
天の御国への通り道がこの地上での人生です。

荒野の旅は決して楽ではありませんでした。
欲しい物が必ず与えられる生活ではありませんでした。(でも必要な物はすべて与えられていました。)
人間的に期待する「祝福」に満ちた生活ではありませんでした。(でも神様は常に共に歩んでくださり、永遠の祝福に向かって一歩ずつ進んでいました)
何も問題の無い、平穏無事な生活ではありませんでした。(むしろしょっちゅう敵に出くわし、戦いがありました)

でも荒野の中で一日、一日、神様に従って前進するなら、必ず約束の地に入る事ができるんです。
それが荒野の旅の目的でした。申命記8:2-6に、荒野の旅に注がれた神様の思いが書かれています。

・ あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るため
・ 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもの(みことば)で生きる、と言う事をあなたにわからせるため
・ 主の命令を守り、その道に歩み、主を恐れる事を学ばせるため

僕たちの人生も...
欲しい物が必ず与えられるわけではありません(どんなに祈っても与えられない物は与えられません)。でも毎日の必要は必ず与えられています。
人間的に期待する「祝福」に満ちているわけではありません。(ある人は裕福ですが、ある人は違います。ある人は成功しているように見えますが、みんなではありません)
クリスチャンになっても問題は絶えません。

でも一日、一日、神様のみことばを守り、神様を恐れ、神様を愛し、神様の道(神様を第一にする道)を歩む事で、天の御国に一歩ずつ近づいていくわけです。

いやぁ、聖書って本当にいいもんですね。(古い?)

2014年9月4日木曜日

脱「人間中心」


「神様の恵みは罪を正当化する言い訳じゃなくて、もっと神様を愛し、仕えるための理由です。」

ある教会で1年間「恵み」についてメッセージが語られていたって聞いた事がある。
へぇ...って思った。僕にはできないなぁ...って思った。(笑)

神様は恵みを注いでくださっている。
神様は愛してくださってる。
神様は必要を満たしてくださる。
神様は罪を赦してくださる。
神様は導いてくださる。
神様はいやしてくださる。
神様は力を与えてくださる。

確かにその通り。そして聞いてる人は「神様ってステキ!」って思っただろうね。
みんな気分良かっただろうね。

でもそればっかってのはどうなのかなぁ...

今のキリスト教の信仰って人間中心のような気がする。
多くのクリスチャンは神様がしてくださる事ばっかり期待してるような気がする。

でもそれってなんか人間中心すぎない?
それって神様が人に仕えてるピクチャーじゃない?
本来は神様が中心の世界で、人が神様に仕えるはずなんじゃないのかなぁ...

ある日曜日、若いクリスチャンがこんな事をFBに書いていた。
「これから礼拝。神様がどんな事してくださるか楽しみ!」

礼拝って神様が僕たちのためにしてくださるものじゃなくて、僕たちが神様のために奉げるものなんだけど...

神様が恵みによって私たちを救ってくださったのは、自分と自分の罪に仕えていた僕たちが神様に仕えるようになるため。

だって、天国に行ったら毎日何するの?

「神と小羊の御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え...」(黙示録22:3)

これが本来あるべき僕たちと神様の関係なんだよね。
僕たちは神様に仕える者として造られ、神様に仕えるために救われたんだ。

でも僕たちは神様が自分に仕えてくれる事ばかり期待しているような気がする。

「神様、今日私はこれをするから、私と一緒に来て祝福してくださいね。」
「神様、私これが必要だから、用意しておいてくださいね。」
「神様、今日も恵みをしっかり注いでいてくださいね。あ、あとあわれみも忘れないで。」
「神様、今日めっちゃきつい一日でした。何してたんですか?」

誰が主人で、誰がしもべなんだろう?

神様がしてくださる事を知るのも大事だけど、神様のために自分がすべきことをもっと考える事がもっと大切なんじゃないかな。

そう思って聖書を読んでみると、神様がしてくださる事よりも、神様が僕たちに期待している事の方が断然多く書かれてる。(俗に「戒め」と呼ばれてます)

神様が自分のためにしてくださる事を期待するより、神様が自分に期待している事に心を向けよう。

祈りも「あれしてください、これしてください」と言う人間中心の祈りからこういう風に変えてみよう。

今日、あなたは私にどう生きる事を求めておられますか?
今日、あなたは私に何をしてほしいですか?
今日、あなたの期待に応える事ができますように。

僕はこう書かれてるリストバンドをしてます。
He died 4 me. I live 4 Him. (彼は私のために死なれた。私は彼のために生きよう。)

ただ、イエス様を信じて生きるクリスチャンじゃなくて、イエス様のために生きるクリスチャンでありたいな。

2014年9月1日月曜日

「主」って何?

主イエスを信じなさい。
主は言われた。
主を恐れる者は...

主、主、主...聖書には「主」と言う言葉が数えきれないほど出てくるね。
でも主って何?

主イエス...なんとなく「Mr. イエス」みたいな感覚でずっと読んでたような気がするんですけど...

でも実はこれって僕たちの信仰生活にめっちゃ関係してくる意味があるんですよ。
これに気づかないと信仰生活間違いなく生ぬるくなる...そんな意味です。

それは...「主人」と言う意味。現代風に言うなら「マスター」「ボス」とでも言いましょうか...。

聖書の時代には「主人と奴隷」と言う関係が普通にありました。
「お手伝いさん」ではありません。「奴隷」です。

この関係において、主人は奴隷」とって絶対的な存在でした。
奴隷は主人に対して絶対服従だったわけです。
言われた事は必ずしなければなりません。
口答えはもちろん、言い訳もできません。
とにかく「これしなさい」と言われたら、返事はただ一つ...「はい、わかりました」

私の主イエス...と言うフレーズはそんな関係の中で生まれて来たフレーズなんです。
つまり、イエス様を「主」と呼ぶとき、私たちは「私はあなたに従います」と言ってるわけです。

ゲッ...簡単に使えなくなった...と思うかも...(笑)

でも多くの人はそんな事考えずに「主」って呼んでるみたい...実は聖書の時代にもそうだったみたい...

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」(マタイ7:21)

主を信じる信仰...それはただ「イエス様~」と叫び、歌ってる信仰ではなくて、日々イエス様に従う信仰なんです。

聖書ははっきり言ってます。信じるって事はイエス様を「主」として従う事なんだ。そういう信仰を持つ者だけが本当の意味で救われているんだ...って。

でも今の民主主義の時代に生きる私たちには全然そんなコンセプトがないので、「イエス様は愛してくださる」「イエス様は赦してくださる」「愛と恵みとあわれみに感謝~」って言って「従う」と言う事をそこまで気にせずにクリスチャン生活送っている人が多いような気がします。

あなたにとってイエス様は「主」ですか?
あなたは「主イエス」を信じてますか?