2015年10月15日木曜日

祈りが聞かれない時...

アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。
(マルコ14:36)

祈っても、祈っても、神様は祈りを聞いてくださらない...そう思った事ないですか?
そういう時って、がっかりですよね。神様どうして?って思う。神様がわからなくなる。ひどい時には神様本当にいるのかな、って思いたくなっちゃうかも。

祈っても聞かれない時...聖書は私たちがその中でも神様に目を向けて前進できるように教えてくれています。

祈っても聞かれない時...

1. それは私の動機がずれてるから

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 (ヤコブ4:3)

あまり聞きたくないことかもしれないけど、自分が欲しいから、自分がやりたいから、自分が楽になるから...と言う動機で祈っている時、その祈りは聞かれないそうです。

これは信仰の軌道修正の絶好のチャンスです。

もし自分が自己中心的な動機で祈っているとしたら、私の心がしっかりとイエス様に向かっていない証拠です。だからその事に気づかされたら、これを機会にもう一度しっかりとイエス様に心を向けてみましょう。きっと見えていなかった素晴らしい道が見えてきますよ。
 
2. 神様は私が願っている物よりもずっといい物を用意しておられるから

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ローマ8:28)

私が「これが一番いい事」と思っている事が神様の目には全然一番いい事でなかったりすることが多々あります。私には目の前の出来事しか見えていないけど、神様にはもっと先まで見えているからです。

神様の御心は常に私たちに最善の事をしてくださる御心です。私たちにその事を理解できないからと言って、その真理が変わるわけではありません。だから神様の最善の御心を信じて、その御心を求める祈りに切り替えてみましょう。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 (1ヨハネ5:14)
 
3. 「それでもわたしを信じますか?」と聞いておられる

あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 (申命記8:2)

嬉しくないかもしれませんが、神様は試練の中で「あなたの願っている通りになっていなくて、苦しいかもしれないけど、あなたはそれでもわたしを信じますか?」と聞いておられ場合があるようです。

良くしてくれるから信じる。楽だから信じる。
そんなためにイエス様は十字架で死なれたのではありません。

私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝む事もしません。 (ダニエル3:17-18)

たとえ願った通りにしてくれなくても、たとえ苦しみの中から救い出されなくても、イエス様が私のために十字架で苦しんで死んでくださったあの愛を思い出して、神様を信じ続けます!と言う信仰を神様は私たちに持って欲しいんです。それが私たちを救う本物の信仰だからです。

苦しくて、祈りが聞かれなくて、嫌になってしまっていたなら、もう一度十字架に目を向けて、もう一度あなたのために苦しみ、命を投げ出してくださったイエス様の前にひざまずきましょう。

大丈夫...苦しみをも乗り越える力を神様は必ず与え、トンネルを抜け出すことができるように一緒に歩んでくださいます。

この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 (申命記8:4-6)


祈りが聞かれなくて苦しんでいるあなたの手を神様がしっかりと握り、あなたを引き上げ、力を与え、共に歩んでくださいますように。そしてその過程であなたがこの素晴らしい神様をもっと知ることができますように。

2015年10月3日土曜日

惨事、悲劇、どうして?

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
(ローマ12:15)

先週、シアトルで留学生を載せたバスとRide the Ducksと言う観光バスが衝突し、5人の留学生が亡くなった。アメリカに到着して、大学が始まって1週目...オリエンテーションの一部でシアトル観光にでかける途中だった。これから夢にまで見たアメリカ生活が始まる、と期待で胸を膨らませていた矢先の出来事...。

今週、オレゴンの大学で乱射事件があり、10人が命を落とした。ある証言によると、犯人はクリスチャンを標的にしていたとか...「お前の宗教はなんだ?」と聞き、「クリスチャン」と答えると、「良かったな。すぐに神様に会えるぞ」と言って射殺したらしい。

この様なニュースが流れると、決まってこの疑問が頭に浮かぶだろう。

「どうしてこんな事が...??」

多くは当てもなく、ただ「どうして?」と思うだけかもしれないけれど、人によっては「神様はどうしてこんな事を許されたんだろう?」とその疑問を神様に向けるかもしれない。

神様は愛の神様じゃないの?
神様はすべてを益としてくださるんじゃないの?
だったらどうして...?

答えが欲しい、説明が欲しい...と思う気持ちはとてもよくわかる。
でも残念ながらこの答えは僕たちには到底見つける事ができない。
僕たちは所詮人間だから...僕たちに見える事、理解できる事には限りがあるから。

でも答えを見つけられなくてもできる事がある。むしろこっちの方が答えを見つける事よりもずっとずっと大切な事だと思う。

それは、この出来事の中で愛する人を亡くした人たちのために祈る事。
傷ついた人たちのために祈る事。
恐怖におびえている人たちのために祈る事。

彼らの痛み、悲しみは僕たちには想像する事しかできないけど、それでも彼らが痛んでいる、悲しんでいる、と言う事実はわかってあげる事ができるはず。だから、神様が彼らを慰めてくださるように、彼らを癒してくださるように、祈る事ができる。

「神様がこの事を許された」...確かにその通りだけど、今はむしろ「神様は彼らを愛し、慰め、癒すことができる」と言う側面に目を向けたい。そして愛の神様に彼らをゆだねて、彼らが今いる真っ暗なトンネルを一歩ずつ進んで、抜け出すことができるように...荒野の旅から約束の地にたどり着くことができるように祈りたい。

僕たちの生活は何もなかったように進んで行く。でも彼らは痛みと悲しみの中で今日も苦しんでいる。
彼らをトンネルの中に置き去りにしないで、祈りを通してトンネルの中を一緒に歩んであげたい。


それが今の僕たちにできる事だと思う。