みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良い事を言ってもらうために
気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
(2テモテ4:2-4)
日頃、僕は自分を「預言者型牧師」だと思ってます。
預言者って言うのは、単に将来の事を語る人ではありません。
預言者って言うのは、神様が語られた事を人々に告げる人です。
旧約の時代と違って、今は「聖書」と言う神様の言葉があります。ですから、僕しか聞こえない神様の声を取り次ぐ...と言うのではなくて、聖書を通して語られている神様の言葉を取り次ぐ...それが「預言者型牧師」です。
聖書って結構厳しいですよね。
神様は愛の神様だけど...イエス様は優しい、愛の神様だけど...同時に罪を嫌われる、義なる、聖なる方...だから罪に対してはとても厳しく語られます。そして神様に従う事をしつこいほど命じられます。
罪の中に長年生きていた僕たちは、身も心も罪色に染まってます。だからやる事なす事、考える事、感じる事...基本的に罪色なんです。
そんな僕たちが聖書の言葉を読む時、必ずしもいい気分はしない...事があるんじゃないかな。
言われたくない事が書かれてたりします。読むふりしてすっ飛ばしたくなる箇所があります。
そして自分の好きなみことばだけにフォーカスして、それを暗唱して、満足して...そんな事ないですか?
ある先生が言ってました。「私たちの多くはバイキング方式の聖書の読み方をしてる。」
どういうことかって言うと、バイキングレストランでは、好きな物だけお皿に取って、嫌いな物は取りませんよね。
同じように好きなみことばばかり食べて、好きじゃないみことばには手もつけない...って事です。
教会で、人々が聞いて嬉しくなるメッセージをしてたらもちろん人は集まってきます。
「神様は必ずあなたの願いを聞いてくださいます」「献金したら神様がお金持ちにしてくれます」「ありのままのあなたでいいんです」「神様はあなたがハッピーでいてくれることが何より嬉しいんです」
そういうメッセージを聞いて、満足して、嬉しくなって、人々は「満たされた」「恵まれた」と言って帰って行きます。でも、そこに「イエス様の弟子」の姿はありません。「イエス様の姿に似せられる」事もありません。
僕は神様が語っておられる事...神様が私たちに願っておられる事をしっかり伝えて行きたい。
人々が聞きたがっているメッセージを語るんじゃなくて、神様が願っておられるメッセージを語りたい。
人々が教会に来て満足して帰るんじゃなくて、神様が満足してくださる姿に変えられて行って欲しい。
聖書は時には(って言うかしょっちゅう)、厳しい事を語ります。心の触れられたくない部分を突っつきます。
自分の手放したくない物を手放しなさいと言います。自分が避けてきた事に直面しなさいと言います。
どうしてそんな事を言うかって言うと...申命記10:13でこう言われています。「あなたのしあわせのために、私が、今日、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守る事である。」
あなたのしあわせのために...これなんですよ!!
僕たちの罪色の心が感じる「気持ち」は必ずしも健全な気持ちではありません。
いやぁな気分になってもしょうがないんですよ...でもね、それが本当の「しあわせ」に近づく一歩なんです。
怪我の治療をする時、痛いじゃないですか。でもそこに触らないと治らない...あれと同じです。
本当に神様を愛しているなら、神様に、そして神様のことばにしっかりと正面から向かってみてください。
神様があなたに何を語っておられるか...自分の気持ちじゃなくて、人の言葉じゃなくて、神様の言葉にしっかり耳を傾けてみてください。それが神様があなたに願っておられる事なんです。