2014年10月30日木曜日

みことばに堅く立って

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良い事を言ってもらうために
気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
(2テモテ4:2-4)

日頃、僕は自分を「預言者型牧師」だと思ってます。
預言者って言うのは、単に将来の事を語る人ではありません。
預言者って言うのは、神様が語られた事を人々に告げる人です。

旧約の時代と違って、今は「聖書」と言う神様の言葉があります。ですから、僕しか聞こえない神様の声を取り次ぐ...と言うのではなくて、聖書を通して語られている神様の言葉を取り次ぐ...それが「預言者型牧師」です。

聖書って結構厳しいですよね。
神様は愛の神様だけど...イエス様は優しい、愛の神様だけど...同時に罪を嫌われる、義なる、聖なる方...だから罪に対してはとても厳しく語られます。そして神様に従う事をしつこいほど命じられます。

罪の中に長年生きていた僕たちは、身も心も罪色に染まってます。だからやる事なす事、考える事、感じる事...基本的に罪色なんです。

そんな僕たちが聖書の言葉を読む時、必ずしもいい気分はしない...事があるんじゃないかな。
言われたくない事が書かれてたりします。読むふりしてすっ飛ばしたくなる箇所があります。

そして自分の好きなみことばだけにフォーカスして、それを暗唱して、満足して...そんな事ないですか?

ある先生が言ってました。「私たちの多くはバイキング方式の聖書の読み方をしてる。」
どういうことかって言うと、バイキングレストランでは、好きな物だけお皿に取って、嫌いな物は取りませんよね。
同じように好きなみことばばかり食べて、好きじゃないみことばには手もつけない...って事です。

教会で、人々が聞いて嬉しくなるメッセージをしてたらもちろん人は集まってきます。
「神様は必ずあなたの願いを聞いてくださいます」「献金したら神様がお金持ちにしてくれます」「ありのままのあなたでいいんです」「神様はあなたがハッピーでいてくれることが何より嬉しいんです」

そういうメッセージを聞いて、満足して、嬉しくなって、人々は「満たされた」「恵まれた」と言って帰って行きます。でも、そこに「イエス様の弟子」の姿はありません。「イエス様の姿に似せられる」事もありません。

僕は神様が語っておられる事...神様が私たちに願っておられる事をしっかり伝えて行きたい。
人々が聞きたがっているメッセージを語るんじゃなくて、神様が願っておられるメッセージを語りたい。
人々が教会に来て満足して帰るんじゃなくて、神様が満足してくださる姿に変えられて行って欲しい。

聖書は時には(って言うかしょっちゅう)、厳しい事を語ります。心の触れられたくない部分を突っつきます。
自分の手放したくない物を手放しなさいと言います。自分が避けてきた事に直面しなさいと言います。

どうしてそんな事を言うかって言うと...申命記10:13でこう言われています。「あなたのしあわせのために、私が、今日、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守る事である。」

あなたのしあわせのために...これなんですよ!!

僕たちの罪色の心が感じる「気持ち」は必ずしも健全な気持ちではありません。
いやぁな気分になってもしょうがないんですよ...でもね、それが本当の「しあわせ」に近づく一歩なんです。

怪我の治療をする時、痛いじゃないですか。でもそこに触らないと治らない...あれと同じです。

本当に神様を愛しているなら、神様に、そして神様のことばにしっかりと正面から向かってみてください。

神様があなたに何を語っておられるか...自分の気持ちじゃなくて、人の言葉じゃなくて、神様の言葉にしっかり耳を傾けてみてください。それが神様があなたに願っておられる事なんです。

2014年10月27日月曜日

弟子作り = 弟子になる

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
(マタイ28:19-20)

昨日、洗礼式がありました。6か月前にシアトルに留学してきた学生が二人洗礼を受けました。とても嬉しそうに洗礼を受けている二人の姿を見て、とても嬉しかったのはもちろん、とても励まされました。

同時に、これからの彼らの成長を祈らずにはいられませんでした。

いつかこんな記事をどこかで読んだのを思い出します。「信じてから最初の3か月、どんなクリスチャンと一緒に過ごすかでその人がどんなクリスチャンになるかが決まる。」

日曜日教会に来て、礼拝してそれだけで満足しているクリスチャンと一緒に過ごす人は、同じように、日曜日教会に来て、礼拝してそれだけで満足しているクリスチャンになります。

積極的に奉仕して、いつも喜んでいるクリスチャンと一緒に過ごす人は、同じように、積極的に奉仕して、いつも喜んでいるクリスチャンになります。

新しくクリスチャンになった人がどのように成長していくか...周りにいる私たちは大きな責任を与えられているんですね。

俗に大宣教命令と呼ばれているマタイ28:19-20でイエス様は「弟子を作りなさい」と言われました。
すべてのクリスチャンに与えられている使命です。

イエス様の弟子の定義は...この箇所を見る限り、「バプテスマを受けて(つまり、イエス様を信じて)、イエス様の戒めを守って生きる人」です。

興味深いのは「弟子になりなさい」とは言われず、「弟子を作りなさい」と言われた事です。
確かにこの言葉は弟子たちに語られたので、あえて「弟子になりなさい」とは言われなかったのでしょう。

でも、この時点ではそこに居合わせた弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げて、そしてまた集まってきたばかりの、本当に弟子としての歩みをしていると言っていいのかわからないような人たちでした。

まだまだこれからじゃない?と思えるような人たちでした...よね?

でもイエス様は彼らに「まずあなたがたがしっかりしなさい。成長しなさい。」とは言われずに「弟子を作りなさい」と言われたんです。ここに大きな「鍵」があるような気がします。

弟子を作るためには、伝道しなければなりません。イエス様を知らない人にイエス様を伝えます。

伝道している間、その人は私を見ています。「クリスチャンってどんな人?」「クリスチャンになったらどうなるの?」「クリスチャンになる価値あるの?」 そんな思いで観察してます。

プレッシャーですね。でも、だからこそ自分がしっかりと「世の光」として輝き、「キリストの香り」を放っていなければならないわけです。

その人がイエス様を信じたら...その人はまだクリスチャンの生き方を知りません。どういう風に毎日の中で神様と一緒に歩んで、どういう姿になって行けばいいのか...知りません。

だからその人に「クリスチャンライフってこう言うもんだよ」って見せてあげないといけない。

プレッシャーですね。でも、だからこそ私が「良き模範」となれるよう、しっかりとイエス様を愛して、イエス様を信頼して、イエス様に従っていかなきゃいけない。

あれ?それって「弟子」の姿じゃん!

弟子づくりをしているつもりが、いつのまにか自分が「イエス様の弟子」の姿に変えられていくわけです。

伝道して、人をイエス様に導き、信じた人がイエス様の弟子になれるように導いていく...この「弟子づくり」の過程が実は私を「弟子」の姿に変えてくれる一番効果的な方法なんです。

まさに一石二鳥だね!!


あなたも弟子づくり...してみませんか?

2014年10月23日木曜日

信仰による祈り

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださると言う事、
これこそ神に対する私たちの確信です。
1ヨハネ5:14

祈りについていろんなみことばがあります。でも、このみことばがないと「祈り」はとってもずれたものになってしまいます。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)
「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。」(マタイ17:20)
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)

これらのみことばから「信じて祈ったら必ず神様は聞いてくださる」と多くの人は信じています。
まじで多くの人が信じています。中には「大勢で祈ったら聞かれる」「叫んだら聞かれる」とかいろいろ発展する人もいますが...。

でももしこれが本当だったら...これはとても恐ろしい事ですよ。

だって罪の性質を持っている人間の願いを「信じて祈った」と言う理由だけで叶えていたら「最善としてくださる神様のご計画」ってのはどうなってしまうんでしょう?

僕が欲しい物を「信じて祈った」から神様が与えてくれるとしたら...なんとなく嬉しいけど、それじゃ自動販売機と何ら変わりないじゃん。

クリスチャンであっても僕たちの心には自己中心的な罪の性質がしっかり残ってます。
自分を喜ばせたい、満足したい、もっといい生活がしたい...そんな思いで祈る祈りを神様が聞いてくださるとしたら、神様は本当に僕に一番いい事をしてくださっているだろうか?

それって神様じゃなくて、しもべ/召使のする事じゃない?

イエス様を信じる前の私たちは自分に頼って生きていました。自分の知識、自分の判断、自分の体験、自分の直感...とにかく自分に頼って生きていました。

でもイエス様を信じて、今度はイエス様に頼るようになりました。これ、どういう事でしょう?

自分の知識、自分の判断、自分の体験、自分の直感によって「これが必要」「こうする事が一番」と思う事をイエス様に助けてもらう事...かな?それって頼ってるようで、頼ってないよね。結局自分の思う通りに事を運ぼうとしているわけだもん。

あれください、これください、ああしてください、こうしてください...私は神様が必ずしてくださると信じます!!それはまだ自分がコントロールしてる祈りであって、頼る祈りじゃない。全然頼ってない。これは「信仰」じゃない。

むしろ、イエス様の知識、イエス様の判断、イエス様の導き、イエス様のご計画に頼って、イエス様が一番いいと思っている事をしてください。それが何であれ私は着いて行きますから...これがイエス様を信じて、イエス様に頼るって事じゃない?

だとしたら、祈りもそうでなきゃいけない。

イエス様はゲッセマネで「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)って祈られた。

やっぱこれじゃない?
神様を信じて祈る、って言うのは「神様は絶対この願いを叶えてくださる」と信じて祈ることじゃなくて、神様のみこころが一番なんだ、って信じて祈る事です。

神様のみこころが一番なんだって信じる祈りには「みこころなら」と言う言葉だけでなく思いも含まれてくるようになります。「私はこれを願っているけど、神様が一番いいと思う事をしてください。私はそれを受け入れ、それに従いますから。」 これが本当の信仰による祈りなんじゃないかな。


今日からみこころを求める祈りを始めてみませんか。

2014年10月17日金曜日

あなたもあなたの家族も救われます

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
使徒16:31

この文章はとても誤解されやすい文章です。
現にとても誤解されています。

私がイエス様を信じたら、私の家族も必ず救われると言う約束...と言う誤解です。

確かにそう読み取れますよね。あなたが主イエスを信じたら、あなたもあなたの家族も救われるよ...って。

極端な人たちは、「私がイエス様を信じているので、私の家族も天国に行けるんです」って信じてる。
でも思い出そう...聖書の約束は「イエス様を信じる人のみが救われる」って事。
イエス様も「御子を信じる者が永遠のいのちを持つ」ってはっきり言ってる(ヨハネ3:16)。

多くの人は「私がイエス様を信じたから、私がイエス様を伝える事で、家族も必ず救われる」って信じてる。
これは素晴らしい信仰です。だからどんどん伝えましょう。

でもこれは「私が信じたら、彼らも必ず救われる」って言う約束ではありません。
もちろんそうであったら最高ですが...でも現実を見てください。確かに一人が救われた結果、家族みんながイエス様を信じるようになった...と言う家族もいます。でも一生懸命伝道しているのに、家族が信じてくれないケース、逆に反対されて迫害されてるケースもあります。イスラムの世界ではイエス様を信じたらその人は家族に殺される...そんなケースもあります。

じゃ、これってどういう意味なんだろう?
文脈を見てみよう。

パウロが捕まっていた牢で地震が起こって、囚人が逃げたと思った看守が自殺しようとした...あのシーンです。パウロたちが逃げていない事を知り、看守はパウロに心を開きます。

パウロとシラスが彼に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。
33節を見ると「彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」とあります。

「ほら、やっぱり」って思う前に32節を見ましょう。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」
ここでイエス様を信じたのは看守だけではありません。看守の家族も福音を聞いてイエス様を信じたんです。

ここの約束は「主イエスを信じたら救われる」と言う約束です。
「あなたは主イエスを信じたら救われます。あなたの家族も、主イエスを信じたら救われます。」と言う意味なんです。

どんな人もイエス様を信じる事によってのみ救われます。あなたも、あなたの家族も、あなたの友人も。

だからあなたの家族に...あなたの大切な人たちにイエス様の事を伝えましょう。

彼らがイエス様を信じるように毎日祈りましょう。

2014年10月9日木曜日

僕らは神のかたちに造られたってどういう事?

そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造した。
創世記1:26-27

神のかたちに造られた...ってどういう事だろう?
このテーマだけで本が書ける...って言うか、出版されてる。
神学書を開いてもこのテーマで何ページも使われてる。

「かたち」という言葉の原語を取り上げてああでもない、こうでもない、といろんな事が言われてる。

神様が権威を持っているように、地上でも権威が与えられてる...とか
知的...考える事ができる...とか
感情をコントロールできる...とか

解釈はとめどなく展開している。神学者がもっともらしく書いていると、もっともらしく見えるもんだね。

昔、バイブルスタディでもいろんな意見が飛び交っていて、ディスカッションが盛り上がっていたような記憶がある。

でも聖書学校で教わったのは...「聖書の答えは聖書から」。

神のかたちに似せて...と言うのがどう言う事か、神学者たちが言ってるほとんどの解釈は聖書には書かれてないんですよ。神学者の頭の中から生まれて来た「人間のアイディア」なんです。

聖書は何を教えてくれてるだろう?創世記5:1-2にこんな風に書かれてました。

「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」

普段は読み飛ばしてる箇所だけど...ちょっと注目してみよう。
神様が人を彼に「似せて」造られた。アダムは彼に「似た、彼のかたちどおり」の子を生んだ。

お!!同じ表現だ!!
神様が人を造られた時の表現とアダムが子供を生んだ時(もちろん実際にはエバですが)の表現...「似た」「かたち」と言う同じ表現が使われてるじゃないですか!!

つまり、神様が人を造られた時...それはまさに親から子が生まれたと言う意味合いがあるんです。

子どもは成長していくにつれて、親に似てくるよね。僕も父にそっくり...とよく言われます。喋り方、歩き方、咳のしかたまで似て来た...と言われます。別にそっくりになろうとしてるわけではないんだけど...やっぱ似てくるらしい。

同じように、僕たちも成長していく中で神様に似てくる...そういう存在として造られた、って事なんですよ。

ヨハネ1:12でイエス様を信じたら「神の子どもとされる」と書かれてます。
2コリント3:18で「主と同じかたちに姿を変えられていく」と書かれてます。

もともと神様の子どものように「神様に似せて造られた」私たちは放蕩息子のように勝手に飛び出して行きました。
でもイエス様を信じて、もう一度「神様の子ども」とされ、クリスチャンとして成長していく中で、徐々に神様に似た者とされていく...そんな意味が「神のかたちに似せて造られた」と言う表現には含まれているんですね。

って事は、私たちは成長して、天のお父さんに似た者となっていくように造られているって事。
言い換えるなら、クリスチャンになって神の子とされたなら、成長しないと意味がないって事です。


あなたはクリスチャンとして成長してますか?毎日成長し続けてますか?

2014年10月4日土曜日

フォロワーシップ

まことに、まことに、あなたがたに告げます。
わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。
わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。
(ヨハネ13:20)

最近、リーダーシップについてよく考えます。リーダーシップの本を読んだり、セミナーに行ったりすると、「人は優れたリーダーについてくる」と言う印象を受けます。一般的に考えると、ま、その通りだなぁ、と思うわけです。

でも、牧師として、いざリーダーの立場に立ってみると、これほど大きなプレッシャーはないわけです。
僕はそんな「優れた」「素敵」なリーダーじゃありません。もちろんリーダーとして持っている資質もあるけど、持っていない資質もあります。みんなそうだと思うんです。

でも「優れたリーダーにならないと人はついて来ない」と言われます。いやぁ...困りました。

でもクリスチャンリーダーシップと本当にそう言うもんかなぁ...って思うんです。って言うか、違うんじゃないかな、って思うんです。

牧師の責任は人々がイエス様に従う「イエス様の弟子」になるように導き、訓練する事です。
人々が、イエス様の愛に応答して、イエス様に従い、イエス様に仕える者となる...それを助け、導くのが牧師の働きです。

でも、今のトレンドは...人々がイエス様に着いて行くかどうかは牧師のリーダーシップ次第...なんですね。

わかるような気もするんだけど...本当にそれでいいのかな.
じゃ、牧師が優れたリーダーじゃなかったらみんなイエス様に着いて行かないの?
牧師が優れたリーダーじゃなかったらみんなイエス様に従わないの?

アメリカでは牧師が変わると、多くの人が教会を去って行きます。「優れた牧師」「自分の気に入る牧師」を探しに別の教会に行くんです。その度に教会は揺さぶられます。

みんな、イエス様ではなく牧師に着いて行ってるからです。
これは間違ってる!!!!!!って大声で叫びたくなる現象です。

牧師がみことばから語る時...神様が私たちに願っている事をみことばから語る時...その牧師が「優れた牧師」だから従うのかな?「自分の好きな牧師」だから従うのかな?だとしたら、一体全体、誰に従っているんだろう?イエス様?それとも牧師?
私が神様に従って生きる事ができるように、私を教え、育てるために神様が遣わしてくださった人...それが牧師です。

理想の牧師なんて存在しません。牧師だって人の子、必ず長所もあれば短所もあります。
でも神様が私のために遣わしてくださったから、私はこの先生の指導に従ってイエス様に従う者となろう...これが正しい、聖書的な姿じゃないかな。

あなたがたの指導者たちの言う事を聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 (へブル13:17

フォロワーシップ。

リーダーシップが多く語られている今日、本当に必要なのはフォロワーシップなのかもしれない。
優れたリーダーを造るのは、優れたフォロワーです。

普段、立場上なかなか言えない、牧師の叫びです。
どの先生も頑張ってます。みんなを導こうとして頑張ってます。

神様が遣わしてくださったあなたの牧師先生に素直について行って、イエス様の弟子となってください。
神様が遣わしてくださったあなたの牧師先生から、イエス様に従う事を学んでください。


あなたは優れたフォロワーですか?