2016年2月9日火曜日

われら天国人 (ピリピから語られた事)

けれども、私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
(ピリピ3:20)

ピリピ人への手紙は「喜びの書」と呼ばれています。だからピリピと言えば「喜び」って言うイメージがあった。こう言う先入観的印象って怖いね...読んでいても「喜び」ばっかり気にしてるから「喜び」ばっかり探して「喜び」ばっかり目に飛び込んできちゃったりする。

去年から礼拝メッセージでピリピ人への手紙のシリーズをやってます。で、準備してたら喜びよりも大きなテーマが見えてきたんですよ。それは「天国」。

ピリピはパウロが牢屋から書いた手紙。聖書の手紙の中で最後に書かれた手紙。もしかしたらパウロ自身、自分が天国に行く日が近づいていたのを察してたのかも...

天国...って言うか、終わりの日にイエス様が来られるって言うテーマは1章から飛び出してきてる。
あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる事を私は堅く信じているのです。」(1:6)

2章を見ると、イエス様が人として来られ、十字架で死なれたのは「すべての口が『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」(2:11)

そして3章では「私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のもの(天国)に向かって進み、キリスト・イエスにおいて上(天国)に召してくださる神の栄冠(永遠のいのち、天国)を得るために、目標(天国)を目指して一心に走っているのです。」(3:13-14)

極めつけは3:20-21 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから、主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

で、有名な4:4「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」

これ、読むたびに「いつもって言われても...喜べない時もあるじゃん...どうやって???」って思ってた。

だって、この地上で生きている限り、思い通りに行かない事って数えきれないほどあるし、いつも神様が状況を願ったように変えてくれるわけじゃない。苦しみの中から助け出されるどころか、苦しみの中を歩き続けなきゃならない事もある。病気になって癒される事もあるけど、癒されない事もある。

地上の生活は「喜び」より「大変」なことの方が多かったりして...現にパウロだって捕まって牢屋に入れられて、いつ処刑されるかわからないわけだし...人間的に見ると全然喜べる状況じゃないよね。

でもこの地上でどんな苦しみに会う事があっても、どんなに大変でも、どんなに希望が無いような状況になっても、「天国に行ける」って言う揺るがない希望(って言うか事実)がある。

夏休み前の期末試験みたいなもんかな。試験勉強めっちゃ大変で、嫌で嫌でしょうがない。なんでこんな事しなきゃいけないの?って思いたくなる。でも試験が終わったら、そこに夏休みが待ってて、あそこに行って、あれして、これして...って思うと頑張れる。試験の向こう側に待ってる「喜び」を視野に入れて頑張れる。

それがクリスチャンの...天国人の地上での姿なのかもしれない。しかも僕らの「夏休み」は永遠に続くんだよね。それに比べたら今のあれこれなんて...。

天国を視野に入れて、いつもその事を喜ぼう。

今は大変かもしれない。今は苦しいかもしれない。今はめっちゃ嫌なことばかりかもしれない。
でも、もうすぐイエス様が迎えにきてくださって、天国に連れて行ってくださる...その日を楽しみにしながら喜ぼう。


われら天国人!