2016年6月15日水曜日

フロリダのゲイバー乱射事件にまつわって

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。~神である主の御告げ~
彼がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ばないだろうか。
(エゼキエル18:23)

フロリダのゲイバーで乱射事件があり、49人が命を落とした。アメリカでも最悪な乱射事件の一つとなる、大参事です。

ニュースやインターネットでも男性カップルが抱き合って泣いている写真が見られます。

さすがに誰も口に出したり、インターネットに投稿したりしていないようだけど、複雑な心境になっているクリスチャン、この出来事をどう解釈していいのかわからないで困っているクリスチャンもいるんじゃないかな...と思う。

同性愛がはびこっていたソドムとゴモラは滅ぼされた...それを思い出した人もいるかもしれない。

確かに同性愛は罪。その同性愛者が集まるゲイバーでの大参事...「神様の裁き?」と思った人もいるかもしれない。

確かに聖書ははっきりと同性愛は罪であると言ってます。(ローマ1:27)

でも、ギャンブルも罪でしょう?なのにラスベガスではこんな参事は起きてません。
嘘をつくのも罪でしょう?
献金をしないのも罪でしょう?
神様を第一にしないのも罪でしょう?

罪を犯しているから裁かれるなら、私たちみんな神様から裁かれなきゃいけないんじゃないかな。

同性愛は他の罪と比べて「ひどい罪」でも「大きい罪」でもない...同じ罪です。
嘘をつくのと同じ罪です。
献金をしないのと同じ罪です。
神様を第一にしないのと同じ罪です。

今のクリスチャン社会において、同性愛とか浮気とか同棲とか結婚前のセックスとかオナニーとか「性的な罪」は特別ひどい罪...ってみなされているような気がするけど、それって聖書的じゃないよね。

他のすべての罪も同じ罪なんだ。
性的な罪を「ひどい罪」とする時、私たちは無意識のうちに他の日常的な罪を「大したことない罪」としてしまっているような気がする。

神様の前において、すべての罪は同じ「罪」であることを忘れちゃいけない。
罪人に対する神様の思いがエゼキエル書に書かれています。

わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。~神である主の御告げ~ 彼がその態度を悔い改めて、生きる事を喜ばないだろうか。 (エゼキエル18:23)

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。~神である主の御告げ~ だから、悔い改めて、生きよ。 (エゼキエル18:32)

更にこうも言われています。
主は、ある人たちが遅いと思っているように、その約束の事(裁き)を遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びる事を望まず、すべての人が悔い改めに進む事を望んでおられるのです。 (2ペテロ3:9)

神様はまだ、罪人を裁かれる事はなさいません。むしろ裁かれて欲しくないんです。そして彼らが裁かれないように...一人でも多く悔い改めて神様に立ち返って欲しい、と切望されているんです。

今回の事件は人の持つ罪が招いた大参事です。大悲劇です。

クリスチャンである私たちは、まず「泣く者とともに泣く」者でありたいですね。(ローマ12:15)

そして一人でも多くが裁きの日が来る前にイエス様を信じる事ができるように伝えていきたいものです。