2015年5月28日木曜日

何を着ればいい?

主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
(1サムエル15:22)

アメリカで「最近の教会では礼拝にちゃんとした服装をしていく事がなくなってきている」と言う記事がありました。確かに昔はみんな日曜日は正装して教会に行っていたようです。僕も日本にいた時は毎週ネクタイをしていたような記憶があります。牧師もちゃんと背広を着ていました。

ところが最近では、牧師でもネクタイをしない人が増えました。ひょっとするとネクタイをしている人の方が少ないかもしれません。初めて来たノンクリスチャンが正装していなくて、場違い感を持たないように、と言う配慮から始まった物でしたが、おかげでTシャツにジーンズで教会に来るクリスチャンも少なくありません。

そこで、「服装論議」が始まるわけです。教会には正装してくるべきか否か。

ある人がこんな事を言っていました。「旧約聖書で神様は祭司の服装を事細かに定めておられる。聖い神様の前に出るのだからやはりそれなりに聖く、ちゃんとした格好をするのが正しい。」 確かにそう言われてみるとそうだな...。

ある人は「礼拝に行く時より、パーティに行く時の方がおしゃれしてるなんて、神様に失礼!」 うん、うん...それも一理あるな...。

じゃ、どこまで「正装」すればいいんだろう?今の理屈で行くと、毎週日曜日、人の結婚式に行くよりおしゃれしないと行けないような感じですよね。それって超非現実的だと思う。

確かに旧約聖書には祭司の服装が書かれているけど、イエス様は服装に関しては一切話されませんでした。むしろ常に旅してましたから、結構汚い服着てたんじゃないかな。それで毎週安息日は会堂で話されてました(ルカ4:16)。

1サムエル15:22で神様は「完璧な全焼のいけにえをささげる事より、あなたがわたしのことばに聞き従う事の方がよっぽど嬉しいんだよ」と言われています。これって服装にも当てはめる事ができるんじゃないかな。

どんなに立派な服装で礼拝していても、礼拝中いねむりしていたり、携帯に気を取られていたりしたら神様は全然嬉しくない。

どんなに立派な服装で礼拝していても、神様が語るみことばに従う生活をしていなかったら神様は全然嬉しくない。

聖書は服装の事にはほとんど触れていません。でも神様に従う事の大切さに関しては至る所で語っています。だからどんな服装で礼拝するかよりも、どんな風に従う生活をするか、に心を向けた方がいいのかもしれませんね。

1ペテロにこう書かれています。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を聞かざるような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊と言う朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(1ペテロ3:3)

服装はその人が神様との間で決めればいいんじゃないかな。僕は普段はTシャツと短パンで礼拝はしません。キャンプに行ったらするかも。ハワイに行ったらするかも。そこの文化に合わせると思います。でも普段は基本的に「都会」の生活なので、少なくとも襟のあるシャツを着るようにしてます。

だからと言ってTシャツと短パンで礼拝に来る人がいても別に気にしないようにしてます。むしろその人が神様とどういう関係を持っているか、どのような信仰生活を送っているか、そこに目を向けて導いてあげたいな。その人の信仰が成長していく中で、神様に示されて礼拝の服装が変わるかもしれない。そしたら感謝ですね。でももしかしたら成長してもずっとそのままかもしれない。それはそれでいいと思う。その人が一生懸命神様に仕え、従って生きているなら、それが何よりも大切なことだからね。