2015年11月18日水曜日

世界が荒れて、揺れている

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。
(マタイ10:28)

ベイルートで、フランスで、爆弾テロが相次いだ。一気に世界が揺れ動いているのがわかる。報復の爆撃が始まっている。

テロリストたちはクリスチャンを大量虐殺し、一般庶民を誘拐・殺害し、世界中を相手に宣戦布告している。その背後にサタンがいるのは一目瞭然。

一連の出来事の中でサタンが実に巧みに成し遂げている事...それは人々の心に「恐怖」を植えつける事じゃないかな。自分の国で爆弾テロがあったらどうしよう、自分の近くにテロリストがいたらどうしよう、これから世の中はどうなっちゃうんだろう...と言う「恐怖」。

世の終わりが着実に近づいているような気がする。

民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと自信が起こります。しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 (マタイ24:7-13)

世の終わりが近づいて、世界が荒れて、揺れ動く時、サタンは僕たちの心に「恐れ」を植えつける。その時に神様にすがれるといいんだけど、大抵の場合僕たちの信仰よりも防衛本能の方が先に動き出す。報復爆撃は防衛本能のなす業かな。

クリスチャン大虐殺も確かにひどいし、残酷だし、かわいそうだと思う。でも、きれいごとに聞こえちゃうかもしれないけど、殺されたあの人たちは今頃イエス様の所で「よく最後まで信仰を捨てずに頑張ったね」とご褒美をもらってる事だろう。

言うのは簡単...って言われちゃうかもしれないけど、イエス様は「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません」って言われた。そして「最後まで耐え忍ぶ者は救われます」って言われた。

もしかしたら今は相手をやっつける事を考える時ではないのかもしれない。こう言う時にこそ神様を見上げて、揺れ動いている世の中に流されないで、恐れに押されないで、しっかりと神様を信じて、神様を愛して、神様につき従う歩みを心がける必要があるのかもしれない。

神様はサタンより強い。
イエス様はテロリストより強い。

たとえテロリストの被害を直接受ける事があっても、私たちの行先は変わることがない。
たとえこの体が焼かれてしまう事があっても、そのすぐ先にイエス様が朽ちない体を持って待っていてくださる。

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。 (ローマ8:18)

って偉そうに言ってるけど、いざ自分が拉致されて、拷問される事を考えるとやっぱりめっちゃ怖い...。

でも...そんなまだ起きてもいない事考えていないで、この真理を信じて、希望をしっかり持っていきたいね。

2015年10月15日木曜日

祈りが聞かれない時...

アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。
(マルコ14:36)

祈っても、祈っても、神様は祈りを聞いてくださらない...そう思った事ないですか?
そういう時って、がっかりですよね。神様どうして?って思う。神様がわからなくなる。ひどい時には神様本当にいるのかな、って思いたくなっちゃうかも。

祈っても聞かれない時...聖書は私たちがその中でも神様に目を向けて前進できるように教えてくれています。

祈っても聞かれない時...

1. それは私の動機がずれてるから

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 (ヤコブ4:3)

あまり聞きたくないことかもしれないけど、自分が欲しいから、自分がやりたいから、自分が楽になるから...と言う動機で祈っている時、その祈りは聞かれないそうです。

これは信仰の軌道修正の絶好のチャンスです。

もし自分が自己中心的な動機で祈っているとしたら、私の心がしっかりとイエス様に向かっていない証拠です。だからその事に気づかされたら、これを機会にもう一度しっかりとイエス様に心を向けてみましょう。きっと見えていなかった素晴らしい道が見えてきますよ。
 
2. 神様は私が願っている物よりもずっといい物を用意しておられるから

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。 (ローマ8:28)

私が「これが一番いい事」と思っている事が神様の目には全然一番いい事でなかったりすることが多々あります。私には目の前の出来事しか見えていないけど、神様にはもっと先まで見えているからです。

神様の御心は常に私たちに最善の事をしてくださる御心です。私たちにその事を理解できないからと言って、その真理が変わるわけではありません。だから神様の最善の御心を信じて、その御心を求める祈りに切り替えてみましょう。

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。 (1ヨハネ5:14)
 
3. 「それでもわたしを信じますか?」と聞いておられる

あなたの神、主が、この40年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。 (申命記8:2)

嬉しくないかもしれませんが、神様は試練の中で「あなたの願っている通りになっていなくて、苦しいかもしれないけど、あなたはそれでもわたしを信じますか?」と聞いておられ場合があるようです。

良くしてくれるから信じる。楽だから信じる。
そんなためにイエス様は十字架で死なれたのではありません。

私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝む事もしません。 (ダニエル3:17-18)

たとえ願った通りにしてくれなくても、たとえ苦しみの中から救い出されなくても、イエス様が私のために十字架で苦しんで死んでくださったあの愛を思い出して、神様を信じ続けます!と言う信仰を神様は私たちに持って欲しいんです。それが私たちを救う本物の信仰だからです。

苦しくて、祈りが聞かれなくて、嫌になってしまっていたなら、もう一度十字架に目を向けて、もう一度あなたのために苦しみ、命を投げ出してくださったイエス様の前にひざまずきましょう。

大丈夫...苦しみをも乗り越える力を神様は必ず与え、トンネルを抜け出すことができるように一緒に歩んでくださいます。

この40年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足ははれなかった。あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、主を恐れなさい。 (申命記8:4-6)


祈りが聞かれなくて苦しんでいるあなたの手を神様がしっかりと握り、あなたを引き上げ、力を与え、共に歩んでくださいますように。そしてその過程であなたがこの素晴らしい神様をもっと知ることができますように。

2015年10月3日土曜日

惨事、悲劇、どうして?

喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
(ローマ12:15)

先週、シアトルで留学生を載せたバスとRide the Ducksと言う観光バスが衝突し、5人の留学生が亡くなった。アメリカに到着して、大学が始まって1週目...オリエンテーションの一部でシアトル観光にでかける途中だった。これから夢にまで見たアメリカ生活が始まる、と期待で胸を膨らませていた矢先の出来事...。

今週、オレゴンの大学で乱射事件があり、10人が命を落とした。ある証言によると、犯人はクリスチャンを標的にしていたとか...「お前の宗教はなんだ?」と聞き、「クリスチャン」と答えると、「良かったな。すぐに神様に会えるぞ」と言って射殺したらしい。

この様なニュースが流れると、決まってこの疑問が頭に浮かぶだろう。

「どうしてこんな事が...??」

多くは当てもなく、ただ「どうして?」と思うだけかもしれないけれど、人によっては「神様はどうしてこんな事を許されたんだろう?」とその疑問を神様に向けるかもしれない。

神様は愛の神様じゃないの?
神様はすべてを益としてくださるんじゃないの?
だったらどうして...?

答えが欲しい、説明が欲しい...と思う気持ちはとてもよくわかる。
でも残念ながらこの答えは僕たちには到底見つける事ができない。
僕たちは所詮人間だから...僕たちに見える事、理解できる事には限りがあるから。

でも答えを見つけられなくてもできる事がある。むしろこっちの方が答えを見つける事よりもずっとずっと大切な事だと思う。

それは、この出来事の中で愛する人を亡くした人たちのために祈る事。
傷ついた人たちのために祈る事。
恐怖におびえている人たちのために祈る事。

彼らの痛み、悲しみは僕たちには想像する事しかできないけど、それでも彼らが痛んでいる、悲しんでいる、と言う事実はわかってあげる事ができるはず。だから、神様が彼らを慰めてくださるように、彼らを癒してくださるように、祈る事ができる。

「神様がこの事を許された」...確かにその通りだけど、今はむしろ「神様は彼らを愛し、慰め、癒すことができる」と言う側面に目を向けたい。そして愛の神様に彼らをゆだねて、彼らが今いる真っ暗なトンネルを一歩ずつ進んで、抜け出すことができるように...荒野の旅から約束の地にたどり着くことができるように祈りたい。

僕たちの生活は何もなかったように進んで行く。でも彼らは痛みと悲しみの中で今日も苦しんでいる。
彼らをトンネルの中に置き去りにしないで、祈りを通してトンネルの中を一緒に歩んであげたい。


それが今の僕たちにできる事だと思う。

2015年9月6日日曜日

苦しみを乗り越えるために

そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。
それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、
練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わる事がありません。
なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5:3-5)

5か月の休養休暇を終えて、教会に戻った。久しぶりのメッセージにちょっと緊張したかな。

この5か月を振り返ってみて思った事。
      神様ってすっげぇ~~~
      僕って愛されちゃってるなぁ~~~

3月に起こった思いもしない出来事で心がズタズタグチャグチャボロボロになって、あと一歩、いや半歩で鬱の渦に飲み込まれる所まで落ちた。

4月は毎日泣いてた。なんだかわからなかったけど涙が止まらなかった。ミニストリーをしないで休んでしまっている自分が受け入れられなかった。グチャグチャになってしまっている自分が受け入れられなかった。

どうしてこんな事が自分に起こるのかわからなかった。どうして神様がこんな事を許されたのかわからなかった。

神様のために一生懸命仕えてきたのに...つもりなのに、どうしてこんなに苦しい思いをしなきゃいけないのか、わからなかった。そんな時、こんなみことばが語られた。

「あなたがたが召されたのは、実にそのため(善を行なって苦しみを受け、耐え忍ぶため)です。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡にしたがうようにと、あなたがたに模範を残されました。」(1ペテロ2:21)

頭では理解できたけど、全然嬉しくないみことばだった。

でも今振り返ってみて、わかった素敵な事がある。一言で言うと「神様は全部知っておられた」って事。

神様はあの出来事が起こる事を知っておられた。神様は僕の心がズタズタグチャグチャボロボロになる事を知っておられた。神様は僕が助けをいっぱい必要とする事を知っておられた。それで神様は僕を励まし、力づけ、もう一度立ち上がらせるために、前もっていろんなイベントを用意してくださってた。

最悪の状態に陥ってすぐ、Y先生に相談できる機会が用意されていた。Y先生は即答で「先生、休んでください。教会は私たちが何とかするから、心配しないで休んでください」と言ってくださった。

12年以上会っていなかった親友牧師と思いがけない再会が待ってた。夜遅くまで語り合い、祈り合い、励まし合い...昔に戻ったみたいで、めちゃくちゃ励まされ、元気もらえた3日間だった。

いくつかのカンファレンスに参加した(前から決まってた)。神様がめちゃくちゃ語ってくださって、これまた涙が止まらなかった。

日本でいろんな牧師先生との交わりがあって、励まされ、アドバイスをいただき、力づけられた。
帰国後もゲストスピーカーの先生との交わりがあり、ここでも励まされ、アドバイスをいただき、力づけられた。

ほとんどが今回の出来事が起こる前から予定されていた出来事。つまり、僕が立ち直るためにあれこれ予定した出来事じゃなくて、神様が事前に予定に入れておいてくださった出来事だった。

神様はこうしてたくさんのイベントを既に用意しておいてくださり、たくさんの人を僕の通り道に配置しておいてくださった。僕を励まし、力づけ、もう一度立ち上がらせて、働きに戻る事ができるように...って。

神様ってすっげぇ~~。
僕って愛されちゃってる~~。

でもこれは僕が特別扱いされてたわけじゃない。
みんな同じ神様に、同じように愛されてるんだ。

だから苦しみが苦しみで終わらず、忍耐を生み出し、練られた品性を生み出し、希望に至る事んだ。


ハレルヤ~~!!

2015年8月28日金曜日

不安になってもいいじゃん

人は心に自分の道を思い巡らす。
しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。
(箴言16:9)

自分にできる、と思っていて実はできない事って結構ある。

健康管理...ある程度はできるけど、それでも病気になるでしょう?気持ち的には自分で管理できるような気がする時があるけど、所詮、限界があるんだ。

就職...ちゃんと勉強して、積極的に就活して、やる事ちゃんとやってたら就職できるような気がするけど、究極的な選ぶ権利は先方にある。って事はこれは自分で結果を出せる、って言うもんじゃない。

恋愛・結婚...これまた選ぶ権利は相手にもあるって事を忘れちゃいけない。

人付き合い...これも50%は相手次第。どんなに自分が「良い人」でも相手次第で人付き合いは上手く行かなくなる。逆も同じ。どんなに相手が「良い人」でも私が関係を壊してしまう事がある。

日々の計画...どんなに計画的に動いていても「予想外の出来事」ってのが飛び込んで来て、計画をぐちゃぐちゃにすることがある。子供の病気、車の故障、電車の遅れ、などなど。

牧会も例外じゃない。どんなに頑張っても、どんなに神学校で教わった通りにやっても、人が思うように成長してくれるとは限らない。

こうやって考えると人生、思い通りに行く事の方が少ないのかもしれない。
神様はそんな私たちに言われます。「もっと私を信頼して、私に頼りなさい。」

万事を尽くして天命を待つ...って事?それって不安じゃない?

もっと自分にできる事があるんじゃないかな...後で自分の努力が足りなかった、もっとああすれば良かった、こうすれば良かった、って後悔するんじゃないかな...。って僕なんかは思っちゃう。

でも、どんなに頑張っても、自分の力には限界がある。自分の努力や自分の力で変えられる事って思ったより少ないんだ。そう思うとどんどん不安にならない?

「不安になるでしょう?だから私に頼るといいんだよ。だから私に頼るしかないんだよ。」と神様は言われているような気がする。

「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない。」(箴言16:3)

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」(2コリント12:9)

不安は神様が働かれる領域。
「心配」の一歩手前が「不安」です。神様は心配してはいけない、と言われます。だから心配の一歩手前で神様に頼る...自分の力が及ばないから神様に頼る。

そしたら、神様の力が完全に現れて、その計画はゆるがない...それが聖書の約束だね。

僕たちはつい自分で一生懸命努力して、頑張って...って言う傾向がある。そうやって育てられてきたから。でも自分の力が及ばない部分にはどうあがいても自分の力は及ばないんだ。それに気づいた時、それを見極めた時、「不安」になる。

そして「不安」になった時、神様に頼ろうって思える。

自分の力を過信している人が神様に頼らないのは、この見極めができないから。
でも自分の弱さを把握している人は、「不安」を体験できるから、神様に頼る事ができる。

不安になってもいいじゃん。不安は神様に頼れる絶好のチャンスだから。そんな事を最近神様が教えてくれた。今度不安になったら、神様に頼ってみよう。


2015年8月21日金曜日

今いる所から始めればいい

それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
(ピリピ3:16)

僕のメッセージは厳しい...ってよく言われる。「従う」って事を良く語るかららしい。

確かに「従いなさい」って言われる事を好む人はあまりいないよね。できればそんな事言われたくない、って言うのが本音なんだろう。

ってわかってるんだけど、聖書は至る所で私たちに「神に従いなさい」って言ってる。これは神様が私たちに知っておいてほしい大切な「真理」なんだよね。だからやっぱ語らずにはいられない。

人々はそんなメッセージをプレッシャーに感じるのかな...プレッシャーに感じてしまうと喜べない。喜べないと受け入れにくい。受け入れにくいと結局従えない。う~ん...悪循環だ。

そんな事をあれこれ考えている時にこのみことばに出会った。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

神様は今日中に100%聖くなれ、100%従えるようになれ、って言ってるんじゃない。
今週中にすべてを明け渡してパウロのようになれ、って言ってるんじゃない。
今月中に今犯している罪を全部やめろ、って言ってるんじゃない。

みんな立っている位置は違う。レースで言うなら、ある人はイエス様を信じたばかりで、スタート地点に立ってるかもしれない。ある人はレースをスタートして間もないかもしれない。ある人は5km地点、ある人は10km地点、ある人は折り返し地点まで来ているかもしれない。

みんな次の一歩は違ってていいんだ。みんな次の一歩は違うはずなんだ。

信じたばかりの人は、まだクリスチャンとしての生き方がどういう物なのか手探り状態だろう。まだ前のライフスタイルがいっぱい残っているだろう。人の模範となる、とか言う以前に、まずは日曜日に教会に行こうって言う段階かもしれない。それでいいと思う。

信じて2~3年目の人は、もしかしたらやっと毎週日曜日教会に行くのが当たり前になって来た...って感じかもしれない。でもまだ毎日ちゃんと聖書が読めなくて、って感じかもしれない。聖書を学んで、やっと少しわかり始めて来たって感じかもしれない。周りに自分より新しいクリスチャンがいるようになって、時々「いい模範にならなきゃ」って示され始めている頃かもしれない。でもどこから始めていいのか、いまいちわからないかもしれない。それでいいと思う。

信じてかなり経っている人は...もしかしたら新しいクリスチャンを導く立場にいるかもしれない。でももしかしたら、未だに聖書を毎日読むのが課題かもしれない。もしかしたら、罪との戦いの最中で葛藤しているかもしれない。

みんな立っている位置は違うんだから、次の一歩も違ってていいんだ。隣りの人がしている事をできるようにならなきゃって必要以上に頑張らなくていいんだ。教会で他の人がしているように自分もできるようにならなきゃって10歩も20歩も先に進もうとしなくていいんだ。

このみことばの前の部分からもう一度読んでみよう。

ピリピ3:13 うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み
ピリピ3:14 神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
ピリピ3:16 すでに達しているところを基準として、進むべき

自分が今いる所を基準として、次の一歩を踏み出せばいいんだ。一歩でいいんだ。大切なのはこの一歩を踏み出したい、って言う気持ち。イエス様が私のために十字架で苦しんで、死んでくださったんだから、その愛に応えて一歩踏み出したい、って言う気持ち。


その気持ちさえあれば、後は聖霊様が力を与え、助けを与え、次の一歩を踏み出せるようにしてくださるから。焦らず、慌てず、一歩ずつ。

2015年7月4日土曜日

自由って何?

もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。
そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。
(ヨハネ8:31-32)

自由って何だろう?

辞書にはこう書かれていました。「自分の意のままに振る舞う事ができる事。」
ま、そうですよね。やりたい事ができる時、「自由」だと感じます。
やりたい事を制限されてしまう時、「不自由」だと感じます。

日本は自由な国です。もちろん法律もあれば規則もあるけれども、民主主義だし、基本的には自分の生きたい様に生きる事が許されている、自由な国です。

でも、イエス様は「真理はあなたがたを自由にします」と言われました。あたかも真理を知る前は自由ではなかったみたいな言い方ですね。私たちも「クリスチャンになって自由が与えられました」って言います。

共産国とかに住んでいるならまだしも、民主主義の国で自由に生きていた私たちがイエス様を信じて救われた時、一体どんな「自由」が与えられたんだろう?

この世の言う「自由」と聖書の言う「自由」はまったく違う「自由」です。この世の言う「自由」は実は全然「自由」じゃないんです。この世の言う「自由」は実は「束縛」なんです。ローマ6章にこう書かれています。

「神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの基準に心から服従し、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」 (ローマ6:17-18)

奴隷と言う言葉が使われているのでちょっとややこしいですが、要は、イエス様を信じる前は私たちは罪の奴隷として縛られていたと言う事です。解放されなければならない状態だったと言う事です。世界の初めまで戻って見るとわかりやすいかもしれませんね。

神様はアダムとエバを造って、エデンの園に置かれました。そこで彼らは神様が言われたように地を耕し、園を管理していました。サタンが誘惑するまでは、「園の真ん中にある木からは取って食べてはならない」と言う神様の命令もちゃんと守っていました。あれが本来の人の姿であり、本来の「自由」なんです。

ところが、サタンが彼らを惑わし、その「自由」を彼らから剥ぎ取り、罪と言う鎖でがんじがらめにしました。本来の姿通りに、神様に従い、仕えて生きることができないように、罪で「束縛」されてしまったんです。それがイエス様を信じる前の人の姿です。

つまり、自分がしたいようにできる事が「自由」なのではなく、本来の人の創造の目的である「神様に従い、神様に仕える」のが本当の「自由」なんです。この世の「自由」とは全然違うでしょう?この世において、特に日本やアメリカのような民主主義国では、基本的に自分のしたい事ができるから、自由だと教えられているけど、それはサタンの大嘘。

聖書は、私たちはイエス様を信じて罪の束縛から解放された、と言っていますね。つまり、罪の束縛から解放されて、やっと「神様に従い、神様に仕える」事ができるようになった、って事なんです。だからパウロがこう言ってるんです。

「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」 (ガラテヤ5:13)

私たちはあまりにも罪の束縛生活に馴染んじゃったもんだから、イエス様を信じて自由にされても「神様に従わなきゃいけない。仕えなきゃいけない。ああ、自分のやりたい事が全然できなくなっちゃう。」って思っちゃうもんです。サタンにしっかり洗脳されちゃってるんです。

もう一度聖書によって自分を洗脳してあげる必要があるのかもしれない。神様に従う事、仕える事が本当の自由なんだって事を繰り返し自分に言い聞かせて、「脱ニセ自由」を心がけたいものです。

今日、あなたは「自由」な生き方してますか?

2015年5月28日木曜日

何を着ればいい?

主は主の御声に聞き従うことほどに、
全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。
見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、
耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
(1サムエル15:22)

アメリカで「最近の教会では礼拝にちゃんとした服装をしていく事がなくなってきている」と言う記事がありました。確かに昔はみんな日曜日は正装して教会に行っていたようです。僕も日本にいた時は毎週ネクタイをしていたような記憶があります。牧師もちゃんと背広を着ていました。

ところが最近では、牧師でもネクタイをしない人が増えました。ひょっとするとネクタイをしている人の方が少ないかもしれません。初めて来たノンクリスチャンが正装していなくて、場違い感を持たないように、と言う配慮から始まった物でしたが、おかげでTシャツにジーンズで教会に来るクリスチャンも少なくありません。

そこで、「服装論議」が始まるわけです。教会には正装してくるべきか否か。

ある人がこんな事を言っていました。「旧約聖書で神様は祭司の服装を事細かに定めておられる。聖い神様の前に出るのだからやはりそれなりに聖く、ちゃんとした格好をするのが正しい。」 確かにそう言われてみるとそうだな...。

ある人は「礼拝に行く時より、パーティに行く時の方がおしゃれしてるなんて、神様に失礼!」 うん、うん...それも一理あるな...。

じゃ、どこまで「正装」すればいいんだろう?今の理屈で行くと、毎週日曜日、人の結婚式に行くよりおしゃれしないと行けないような感じですよね。それって超非現実的だと思う。

確かに旧約聖書には祭司の服装が書かれているけど、イエス様は服装に関しては一切話されませんでした。むしろ常に旅してましたから、結構汚い服着てたんじゃないかな。それで毎週安息日は会堂で話されてました(ルカ4:16)。

1サムエル15:22で神様は「完璧な全焼のいけにえをささげる事より、あなたがわたしのことばに聞き従う事の方がよっぽど嬉しいんだよ」と言われています。これって服装にも当てはめる事ができるんじゃないかな。

どんなに立派な服装で礼拝していても、礼拝中いねむりしていたり、携帯に気を取られていたりしたら神様は全然嬉しくない。

どんなに立派な服装で礼拝していても、神様が語るみことばに従う生活をしていなかったら神様は全然嬉しくない。

聖書は服装の事にはほとんど触れていません。でも神様に従う事の大切さに関しては至る所で語っています。だからどんな服装で礼拝するかよりも、どんな風に従う生活をするか、に心を向けた方がいいのかもしれませんね。

1ペテロにこう書かれています。
「あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を聞かざるような外面的なものでなく、むしろ、柔和で穏やかな霊と言う朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人柄を飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(1ペテロ3:3)

服装はその人が神様との間で決めればいいんじゃないかな。僕は普段はTシャツと短パンで礼拝はしません。キャンプに行ったらするかも。ハワイに行ったらするかも。そこの文化に合わせると思います。でも普段は基本的に「都会」の生活なので、少なくとも襟のあるシャツを着るようにしてます。

だからと言ってTシャツと短パンで礼拝に来る人がいても別に気にしないようにしてます。むしろその人が神様とどういう関係を持っているか、どのような信仰生活を送っているか、そこに目を向けて導いてあげたいな。その人の信仰が成長していく中で、神様に示されて礼拝の服装が変わるかもしれない。そしたら感謝ですね。でももしかしたら成長してもずっとそのままかもしれない。それはそれでいいと思う。その人が一生懸命神様に仕え、従って生きているなら、それが何よりも大切なことだからね。



2015年4月27日月曜日

幸せってなんだっけ?

イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。
「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 これは「あなたを産んだ母親はどんなに幸いなことでしょう!」と言う意味です。イエス様があまりにも素晴らしい話をしていたので、イエス様をほめたたえるだけじゃなく、イエス様の親をもほめたたえているんですね。現代の日本ではこういう言い方はまずしませんが、当時のユダヤ人の文化ではあまり珍しくない、祝福の言葉だったようです。

ま、それはともかく...どういう人を見た時「あの人は幸せな人だなぁ」と思いますか?

事業で成功している人。自分が買えないような物を何でも持っている人。ある分野で優れた能力を持っている人。子供がまっすぐ育っている(ように見える)人。いい学校、いい会社に入った人。マイホームを持っている人。素敵な彼氏、彼女がいる人。

一般的にはこういう人が「幸せ」に見えるかもしれません。そしてそういう生き方を目指し、手に入れようと一生懸命頑張っているかもしれません。

そんなこの世のメガネで、一生懸命神様に従おうとしているクリスチャンを見たらどのように映るでしょうか?「あの人、誰よりも幸せそうだな」って思うでしょうか?皆さんの教会の牧師先生はどうですか?牧師って言うのは確かに簡単な働きではありません。でも、経済的にもっと豊かになれる仕事を辞めて、神様に一生懸命従って仕え、生きているのが牧師です(大半の場合はそうだと思います。そうであって欲しい物です。) そんな牧師の姿を見て、「先生はいつ見ても幸せそうだな」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

牧師じゃなくて、信徒であっても、家族で唯一のクリスチャンで、しょっちゅう家族から嫌味とかを言われながら頑張って信仰を貫いて生きている人はどうでしょうか?会社で唯一のクリスチャンで、価値観の違う人たちに囲まれて、それでも妥協することなくみことばに従って歩んでいる人はどうでしょうか?思い切りこの世の冷たい逆風にあおられて、辛い思いをする事もしばしば...そういう人たちを見た時に「わぁ、あの人すごい幸せそう...私もああいう生き方したいなぁ」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

イエス様は言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

この世は辛い思いをせずに生きる事ができるなら、それが幸せ...と言います。自分の気持ちが幸せの基準なんです。でもどんなにお金があって、どんなに楽しく生きていても、神様に向かって生きていないのであれば、その行き着く所に待っているのは「裁き」であり、「滅び」です。するとそれは決して「幸せ」な生き方ではありませんね。

逆にどんなに辛い思いをしていても、神様のみことばにしっかり従って生きているなら(生きようと心がけ、努めているなら)、その行き先に待っているのは永遠に続く祝福です。神様からの「良くやった。良い忠実なしもべだ」と言う最高の言葉です。

別にみことばに従うと辛い事ばかり、と言うわけではありません。もちろんそこには喜びの道も用意されています。でも、苦しみも必ずあります。何が言いたいかと言うと、嬉しい、楽しい、辛い、苦しい、と言う私たちの気持ちは幸せとは何の関係もないと言う事なんです。本当の幸せはこの世が何と言うかではなく、私がどう感じるかではなく、どこに向かっているか...誰に向かっているか...なんです。

この世の言葉に従うのではなく、自分の言葉に従うのではなく、神様の言葉を聞いて、それに従う時、私たちは幸せの道を歩んでいる事になるんです。

この世の言葉に騙されないでください。この世の考え方、価値観に騙されないでください。この世の生き方に騙されないでください。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」


あなたは今日、幸せですか?

2015年4月4日土曜日

4つの種のたとえ

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:20)

ある人が種を蒔いたら、最初の種は道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。次の種は土の薄い岩地に落ちました。するとすぐに芽を出したけれど、日が上ると焼けて、枯れてしまいました。次の種はいばらの中に落ちました。芽が出て伸び始めたけど、いばらがふさいで結局実を結びませんでした。次の種は良い地に落ちました。そこで芽生え、育って、30倍、60倍、100倍の実を結びました。

ご存知の「4つの種のたとえ」です。本来なら「4つの地のたとえ」であるはずなんですが、なぜか「4つの種のたとえ」と呼ばれています。ま、どうでもいい事ですが...。

少し後でイエス様が解説されています。「種蒔く人はみことばを蒔くのです。」(マルコ4:14)
そして4つの地はそれぞれ蒔かれたみことばをどのように受け止め、応答しているかの違いを現わしています。

道ばたはみことばをちゃんと受け入れない人たち...ただ聞くだけ、読むだけの人たちです。
土の薄い岩地はみことばを喜んで受け入れるんですが、「いいみことば!」で終わってしまうので、根を張らず、困難や迫害の中でみことばに頼る事はなく、すぐにつまずいてしまいます。
いばらの中は、みことばを聞き、理解もします。知識はあります。でも他にもっと大切な物がたくさんあるので、みことばはいつも蚊帳の外...実を結ぶことはありません。
そして良い地はみことばを聞いて受け入れ、従う人たちの事です。

多くの人は「良く知ってる」たとえだと思います。よくメッセージで「あなたはどの地ですか?」と聞かれます。そして多くのクリスチャンが「私はまだまだいばら...」とか言っていたのを思い出します。

でもこの事を知っておいてください。この4つの地で最初の3つは救われていない人の姿です。クリスチャンは良い地でなければなりません。

厳しいと思うかもしれませんが、イエス様の言葉を見てください。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10、7:19)

ヤコブも言いました。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

みことばを実行する事はとても大切です。「私は救われているから大丈夫」と言うのはサタンの嘘です。サタンはあなたにみことばを実行して欲しくないんですよ。だから「あなたは救われているんだから、無理して従わなくても大丈夫...神様は赦してくださるよ」って言うんです。

でもだまされないでください。私たちがみことばを実行する「良い地」でいる事を神様は何よりも望んでおられるんです。もちろん完璧にはできないでしょう。罪を犯してしまう事もあるでしょう。そしたら悔い改めればいいんです。罪を言い表して悔い改める事はみことば(1ヨハネ1:9)を実行している事ですからね。

私たちはみことばを実行できない時、あれこれ言い訳をするのがとても上手です。でもこのたとえはとてもシンプルに私たちの責任を教えています。

まず、みことばを蒔く人がいますね。大抵の場合、牧師だったり、バイブルスタディのリーダーだったりするでしょう。

そしてそのみことばを聞いた人がいますね。これがあなたです。その他には誰もいません。誰かがやって来て地を耕して「良い地」にしてくれるわけではありません。誰かがやって来ていばらを切り取ってくれるわけではありません。みことばを聞いた人がそのみことばをどう受け入れ、どのように応答し、実行するか...それ次第で「良い地」になるかどうかが決まるんだよ、って言う事です。

神様は完璧さを求めているわけではありません。あれこれ言い訳をせずに、みことばを受け入れて実行する姿勢を求めておられる...それがこのたとえの教えている大切な、大切な真理です。


「いいメッセージだった」「このみことば好きなんですよ」から一歩抜け出て、「これ実行してみよう」のみことば生活してみませんか?

2015年3月1日日曜日

世界で一番虫のいい話

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。
それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 
(エペソ2:8)

私たちは恵みのゆえに救われました。でも私たちは信仰によって救われました。恵みによって?信仰によって?どっち?日本語だとここの訳し方が少し曖昧ですが、ギリシャ語や英語の聖書を読むと「恵みのゆえに、信仰を通して」となっています。この方がわかりやすいですね。つまり私たちは信仰を持つことを通して、恵みのゆえに救われたんです。恵みって何でしょうか?後半に書かれている「神からの賜物」です。でも単なる「贈り物、プレゼント」よりも遥かに価値があるものです。恵みとは、私たちが本来受ける事の出来ない物をいただく事だからです。

「確かにイエス様が私のために死んでくださったんだけど、私が救われたのは、私がイエス様を選んで、私がイエス様を信じる決心をしたからなんだ。」と思った事ありませんか?だってイエス様は山田君のためにも死んでくださったけど、山田君はイエス様を選んでないから救われてない。それに比べたら私はイエス様を選んだんだ。確かに誰かが祈っててくれたし、誰かがイエス様の事を伝えてくれたけど、最終的には私が自分でイエス様を選んで信じようと決心したんだ。そんな風に思った事はありませんか?私は長い間そんな思いが抜けませんでした。

でもエペソ人への手紙2章を読んでいるうちに「恵みによって」の意味が段々わかってきました。2節を読むと、私たちは以前は「罪の中にあってこの世の流れに従い...不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいました」と書かれています。そして3節でも「不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない」とあります。普通に使う表現で言うと、「悪魔と罪に心を任せて、神様よりも、自分...神様がどう思うかなんてこれっぽっちも考えずに、自分が好きかどうか、自分がやりたいかどうか、自分が正しいと思うかどうかを優先させて生きていた」わけです。これは物凄くひどい人間の姿ですね。理性を捨てて、本能で生きている...と言ってもいいような、恐ろしく、醜い姿です。そしてもっと恐ろしい事に、これは私とあなたの事を言ってるんです。更に、最も恐ろしい事にそんな状態だった私たちは「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」だったんです。

神の御怒りを受けるべき状態って考えた事ありますか?お父さんが怒ってる、先生が怒ってる、お巡りさんに怒られた...って言うのとは違います。全然違います。レベルが違います。相手は全世界を造られた全能の神様です。全世界をその手に治めておられる主権者です。私がこの世に存在しているのはまさにこの神様のお陰であって、私のいのち、私の人生はこの神様の手の中にあるんです。その神様の御怒りの対象であるってとんでもなく恐ろしい事ではないでしょうか?神様の御怒りの中にある時、そこには祝福なんてありません。私がしてる事へのサポートはゼロです。マイナスです。どんなに辛い、苦しい人生の嵐の真っ只中でも一人ぼっちです。自分の力にしか頼る事ができません。どんなに祈っても、どんなに叫んでも、何も起こらないし、何も変わりません。神様の御怒りの中にいるからです。

そんな御怒りの対象になるような「罪深い」私たちは、それでも更に罪に罪を重ね、神様を裏切り続け、神様を傷つけ続け、神様を無視し続け、神様の愛を踏みにじり続け、「私は自分で幸せになれる。これは私の人生なんだから自分で生きる。放っておいて!」と傲慢な思いで好き勝手に生き続けてきました。そんな私たちのためにイエス様が苦しんで死んでくださったのに、私たちは毎日その背中にムチを振り下ろし、その手足に釘を打ち付けながら生きていたんです。こうして書いてみると、めちゃくちゃひどい人間ですよね。そんな私たちが「信じる」だけで救われる事ができる...そんな虫のいい話があっていいんでしょうか?これっぽっちも自分のしてきた罪を償わなくていいんですか?本当に「信じる」だけでいいんですか?

神様は「いいんだよ」って言って、大きく手を広げて私たちを迎え入れて、抱きしめてくださいます。これは「恵み」でなくて何でしょう?

そんな私たちのために神様はひとり子を送ってくださいました。これは「恵み」でなくて何でしょう?

そしてイエス様は救いの対象である人間にムチ打たれ、あざけられ、十字架に釘づけにされ、それでも私たちを愛する愛の故に耐えて、ご自身をささげてくださいました。これは「恵み」でなくて何でしょう?

あなたは恵みによって救われました。

その恵みにあなたは何をお返ししますか?

2015年2月20日金曜日

世界で一番大きな愛

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ15:13)

神様が私を愛しているなら、どうしてこんなに辛い目に合わせるの?

誰もが思った事のある疑問かもしれませんね。
確かにその通り、って思いたくなります。

神様は愛の神様。でも今置かれている状況の中ではその愛が見えない。
どうして苦しませるの?どうして癒されないの?どうして次から次にいろんな事が起こるの?

私たちは毎日の生活の中に神様の愛を探します。見える時もあれば、見えない時もある。
見えない時...苦しくなります。そして疑いが湧いてきます。信仰が揺さぶられます。

でもね、神様の愛はもうすでに注がれているんですよ。
あなたはもう既に世界で一番大きな愛をいただいているんです。

それは十字架の愛。イエス様があなたを救うためにご自身を犠牲にしてくださった、あの愛。
あなたが神様に対して犯してきた罪の罰を、あなたの代わりに受けてくださった、あの愛。
背中の肉を、骨が露出するまで引き裂かれ、出血多量になるほど血を流され、立っているのもやっとの状態で十字架を担がされ、十字架に釘で打ち付けられて、3時間も気が狂いそうな痛みに耐えてくださった、あの愛。

あれよりも大きな愛はこの世に存在しない...そんな愛をあなたはもう受けているんです。

でも私たちは、そんな愛よりも今日の試練から助け出してくれる愛の方がいい...って言うんです。
その愛もいいけど、今抱えている病気を癒してくれる愛の方がいい...って言うんです。

これって、100億円くれた人に、「どうして今月のお小遣いくれないの?」って言ってるようなもんだよね。

ローマ8:32にこう書かれています。 
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

世界で一番大きな愛を注いでくださった神様は同じ愛で今日もあなたの必要を満たし、あなたの心を支え、あなたのために一番いい事をしてくださっています。

それは必ずしもあなたが期待している愛し方ではないでしょう。

あなたは試練から助け出す愛を探しているけど、神様の愛は試練の中であなたを励まし、あなたと一緒に歩んでくださる愛なのかもしれない。

あなたは病気が癒される愛を探しているけど、神様の愛は病気の中であなたを励まし、痛みに耐える力を与え、永遠への希望を思い出させ、あなたと一緒に歩んでくださる愛なのかもしれない。

あなたは自分の進もうとしている道を祝福してくださる愛を探しているけど、神様の愛はその道を閉ざして、あなたのために本当の意味で一番いい道を開いてくださる愛なのかもしれない。

神様はひとり子をあなたのためにささげてくださいました。
イエス様はいのちをあなたのためにささげてくださいました。

あの愛じゃ足りないですか?もっと愛が欲しいですか?
十字架の愛で十分じゃないですか?

十字架の愛を信じてみてください。

今日神様があなたの生活の中でされている事は、十字架の愛によってしてくださっている事です。
今日神様があなたの生活の中であえてされないでいる事は、十字架の愛によってされていない事です。

あなたは今日も愛されています。

世界で一番大きな愛で、愛されています。

2015年2月11日水曜日

どれがみこころの道?

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
(イザヤ30:21)

進路を選ぶ時、就職先を選ぶ時、結婚相手を選ぶ時、引っ越し先を選ぶ時...どれがみこころなんだろう、って困ってしまう事がありますよね。(できれば結婚相手の場合は気持ち的にはっきりしていたいけど)

罪かどうか...だったらまだ聖書を読めば答えがあると思うけど、A社とB社...どっちがみこころ?みたいな事になると、難しいんじゃないかな。複数の選択肢があって、どれをとっても神様から離れるわけじゃないし、神様に従う妨げになるわけでもないし...そう言う時どうしたら神様のみこころがわかる?

「神様にこうしなさい、って示されました」って言う人に時々出会うけど、いつもすごいなぁって思う。私はそんなに神様の声がはっきり聞こえるわけじゃないし、自分のしたい事とか自己中心的な気持ちがミックスしちゃうから、本当に神様から示されているのか、自分の思いなのかはっきりわからない事の方が多いんですよ。

時には神様のためにしようと思っているのに道が開かれなかったりすることもある。僕はカナダの神学校を卒業してから、道が開かれるまで2年間かかりました。「神様に仕えようとしているのになぜ?」って思ったものです。あの時は結構苦しかったですね。

神様のご計画ってなかなかわからないものですよ。なんたって相手は神様で、自分はしがない人間ですから。あのパウロでさえ言ってます。「その(神様の)道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)。

でも神様はみこころを行ないなさい、って言うし...。わたしの道を歩みなさい、って言うし...。
困ったもんです。どうしたらいいんだろう?

私の「みこころ見極め法」は結構原始的で、シンプルです。ある意味、これなら間違いない...って方法じゃないかな。それは「扉を叩いて開いたら進む」方法です。

イスラエルがヨルダン川を渡った時、彼らは川の前で水が止まるのを祈って待っていた...わけじゃない。ヨシュア3章を見ると、契約の箱をかつぐ祭司たちは水がまだ溢れんばかりに流れているヨルダン川に入って行きました。すると、水がせき止められて、彼らの前に道が開かれ、彼らは進んで行きました。

まさにこれです。まず、神様のみこころを求めて祈りながら、扉を叩いてみる。つまり、一つの方向に一歩進んでみるんです。就活や進路であれば、問い合わせてみる。申し込んでみる。

何回問い合わせても連絡が取れない、返事が来ない。そう言う時は神様が扉を開いていない、と言う事でしょう。でも次のステップに進める返事が来たら、とりあえず神様が最初の扉を開かれたわけです。そのまま進んで、次の扉を叩いてみる。神様が開いてくれたら、また進む。でも開いてくれなかったら...残念だけど、そこはみこころではない(或いはみこころの時ではない)んでしょう。そこでいつまでも頑張ってないで、別の扉を探し始めた方がいいかもしれない。

自分の思いが強ければ強いほど、閉まってる扉をこじ開けたくなるものです。神様に「何とか道を開いてください」って祈って、祈って、祈って、神様を何が何でも動かそうとしたくなるものです。

でもね、主権は神様にある事を忘れないで。私たちのみこころを神様がサポートしてくれるんじゃなくて、神様のみこころに私たちがついていくんです。私たちがしたい事に神様がついてくるんじゃなくて、神様のみこころに私たちが着いて行くんです。

動機が「神様のため」じゃなかったら、十中八九みこころではないけど、たとえ動機が「神様のため」であってもそれが「みこころ」とは限りません。

神様のみこころは測り知れない。そんなに簡単にわかるもんじゃない。
その事を念頭に置いて、一歩、一歩、神様に伺いながら、扉を叩いて、開かれたら進み、閉ざされたら別の扉を探す...時間はかかるかもしれないけど、これが一番確実な「みこころ見極め法」です。


今日、あなたはどの扉を叩き、どの扉をくぐりますか?

2015年2月7日土曜日

神様に喜ばれる礼拝

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。
あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。
たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、
穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。
あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。
わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。
(アモス5:21-23)

「いやぁ、今日はいい礼拝だった」
「今日の賛美、めっちゃ熱かったよね」

このように言えるって素敵だと思います。それだけ真剣に礼拝に臨んでいると言う事でしょう。
神様が同じように言って下さったら、もっと素晴らしいと思いますね。
でも必ずしも、私たちの礼拝評価と神様の礼拝評価は同じではないのかもしれません。

カインは普通に穀物のささげ物をささげました。アベルは羊の中から最良のものをささげました。
二人とも、ちゃんとささげ物をささげました。二人とも、ちゃんとささげたので、それなりに満足していた事でしょう。
でも神様はカインのささげ物を拒絶し、アベルのささげ物だけを受け入れられました。

イスラエル人は神様に言われた通りにきよめの集会をして、いけにえをささげていました。
全焼のいけにえもちゃんとささげていました。それだけじゃなくて、穀物のささげ物も、和解のいけにえも、ちゃんと神様に言われた通りにささげていました。賛美の歌も歌っていました。

ちゃんと言われた通りにしていたので、きっとみんな満足していた事でしょう。

でも神様は全然満足されていませんでした。神様は全然喜んでいませんでした。

礼拝は誰を満足させるものでしょう?
礼拝は誰を喜ばせるものでしょう?

神様です。

バンドが上手に演奏して、雰囲気を盛り上げて、みんなで手を上げて歌って、最高の気分になって...この時点で礼拝者は最高に満足しています。気持ち的に満たされています。

「いいメッセージ」を聞いたら、恵まれたような気がします。いい礼拝だったような気がします。

でも、神様は満足されているでしょうか?神様は喜ばれているでしょうか?

神様が喜ばれる礼拝はどんな礼拝でしょう?1サムエル15:22でこう言われています。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

気持ちを込めて「あなたを愛します~」って賛美するだけではなく、日々神様を愛する愛によって、そのみことばに従う生活をする時、それが真の礼拝となって、神様はその賛美を喜んでくださいます。

いいメッセージを聞いて感動するだけではなく、語られた事に応答して、実践して行く時、それが真の礼拝となって、神様はその応答を喜んでくださいます。

あなたの礼拝は自分の満足でとどまっていませんか?

神様に喜ばれ、受け入れられる礼拝を心がけてみませんか?

2015年1月26日月曜日

もっとも大切な戒め

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家に座っている時も
道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。
(申命記6:5-7)

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
イエス様は「これが大切な第一の戒めです」と言われました。(マタイ22:38)

うん、うん。そうだよね。神様を愛する事が何よりも大切だよね。
でも何をどうしたら神様を愛する事になるんだろう?

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...これってどういう事?
よくバイブルスタディで「心を尽くすってどういう事?」「精神を尽くすってどういう事?」「力を尽くすってどういう事?」って別々に考えてたのを思い出すけど、これって要は「自分のすべてを尽くして」って事なんです。

じゃ、どうしたら「自分のすべてを尽くして愛する」事になるんだろう?実際何をすればいいんだろう?

イエス様が引用されたのは申命記6:5。僕の聖書にも線がちゃんと引いてある。
6-7節も線が引いてある。でも、5節とは別に覚えてた箇所のような気がする。

5節は自分のすべてを尽くして神様を愛する、って言うもっとも大切な戒め。
6-7節はみことばを心に刻んで、子供たちに教えて、日夜唱えるって言う、みことばに関する戒め。

いや、ちょっと待てよ...でもこれって別々のメッセージじゃなくて、続いてるよね。
って事は、6-7節も「もっとも大切な戒め」の一部なんだ。

自分のすべてを尽くして神様を愛する時、私たちは神様のみことばを心に刻み、神様のみことばを子供たちに教え、神様のみことばを日夜唱えるようになるんだ。

つまり、神様のみことばを愛し、神様のみことばを喜び、神様のみことばによって生きるって事なんだ。

イエス様が「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)って言われたのを思い出します。

神様を愛するって事は神様のみことばを大切にして、従うって事なんだ...しかも心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...自分のすべてを尽くしてみことばを大切にして、従うって事なんだ。

人間関係でも同じだよね。誰かを愛してるって言いながら、その人の言う事を大切にしてなかったら...「あなた、私の事愛してないでしょ!」って言われるんじゃない?

愛する人が「これしてほしい」「こういうことはしないでほしい」って言う時、やっぱりその言葉を大切にして、その人の願いを聞いてあげたい...そう思うんじゃない?

神様に対する愛も同じ。

「神様、あなたを愛します」って言うなら、自分で勝手に満足する愛し方じゃなくて、神様が喜んでくださる愛し方したい。自分なりに適当に愛するんじゃなくて、みことばを大切にして、喜んで、みことばによって生きたい。

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を愛し、神様のみことばを愛するようになりたい。


あなたも今日、自分のすべてを尽くして神様を愛してみませんか?