2015年1月26日月曜日

もっとも大切な戒め

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家に座っている時も
道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。
(申命記6:5-7)

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
イエス様は「これが大切な第一の戒めです」と言われました。(マタイ22:38)

うん、うん。そうだよね。神様を愛する事が何よりも大切だよね。
でも何をどうしたら神様を愛する事になるんだろう?

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...これってどういう事?
よくバイブルスタディで「心を尽くすってどういう事?」「精神を尽くすってどういう事?」「力を尽くすってどういう事?」って別々に考えてたのを思い出すけど、これって要は「自分のすべてを尽くして」って事なんです。

じゃ、どうしたら「自分のすべてを尽くして愛する」事になるんだろう?実際何をすればいいんだろう?

イエス様が引用されたのは申命記6:5。僕の聖書にも線がちゃんと引いてある。
6-7節も線が引いてある。でも、5節とは別に覚えてた箇所のような気がする。

5節は自分のすべてを尽くして神様を愛する、って言うもっとも大切な戒め。
6-7節はみことばを心に刻んで、子供たちに教えて、日夜唱えるって言う、みことばに関する戒め。

いや、ちょっと待てよ...でもこれって別々のメッセージじゃなくて、続いてるよね。
って事は、6-7節も「もっとも大切な戒め」の一部なんだ。

自分のすべてを尽くして神様を愛する時、私たちは神様のみことばを心に刻み、神様のみことばを子供たちに教え、神様のみことばを日夜唱えるようになるんだ。

つまり、神様のみことばを愛し、神様のみことばを喜び、神様のみことばによって生きるって事なんだ。

イエス様が「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)って言われたのを思い出します。

神様を愛するって事は神様のみことばを大切にして、従うって事なんだ...しかも心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...自分のすべてを尽くしてみことばを大切にして、従うって事なんだ。

人間関係でも同じだよね。誰かを愛してるって言いながら、その人の言う事を大切にしてなかったら...「あなた、私の事愛してないでしょ!」って言われるんじゃない?

愛する人が「これしてほしい」「こういうことはしないでほしい」って言う時、やっぱりその言葉を大切にして、その人の願いを聞いてあげたい...そう思うんじゃない?

神様に対する愛も同じ。

「神様、あなたを愛します」って言うなら、自分で勝手に満足する愛し方じゃなくて、神様が喜んでくださる愛し方したい。自分なりに適当に愛するんじゃなくて、みことばを大切にして、喜んで、みことばによって生きたい。

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を愛し、神様のみことばを愛するようになりたい。


あなたも今日、自分のすべてを尽くして神様を愛してみませんか?

2015年1月24日土曜日

たとえわからなくても

わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。
~主の御告げ~
天が地よりも高いように
わたしの道は、あなたがたの道よりも高く
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
(イザヤ55:8-9)

神様ってすごいんですよ。
なんて言ったって神様ですから。

私の知らない事、いっぱい知ってるんです。何でも知ってるんです。
私にできない事、いっぱいできるんです。何でもできるんです。

神様ってすごいんですよ。
なんて言ったって神様ですから。

こうして読んでると、「うん、うん、そうだよね。アーメン!」って思えるかも。
でも実生活においてはそんなに素直に受け止められない時があったりするような気がする。

「聖書ではこう言ってるけど...そんな事したら大変になっちゃうんじゃないかな。」
「神様一番とか言ってたら、社会じゃやっていけない。」

そう思う事がしばしば...いや、しょっちゅうかもしれない。

神様の戒めに従う時、本当に従う事が自分にとって益となるかどうか、頭の中でシミュレーションしてみて、納得したら従おう...みたいな自分がいるかもしれない。

どうしてこんな事しなきゃいけないんですか?
本当にこれ、祝福につながるんですか?

そう言って神様に口答えしてる自分がいるかもしれない。

「納得したら従おう」「納得したら信じよう」「納得したら...」って言う自分がいるかもしれない。
石橋を叩いて、叩いて、十分安全確認してから渡ろうとする自分がいるかもしれない。

でも、相手は神様であることを忘れちゃいけない。
私たちの常識、知識を遥かに越えた、全能の、物凄い方であることを忘れちゃいけない。

もし、神様のされる事、言われる事がすべて、私たちのちっぽけな脳みそで理解して納得できるとしたら、それってめっちゃ「人間レベル」じゃない?それじゃ、神様でいる意味ない。

神様は、私たちのちっぽけな脳みそでは到底理解できない、納得いかない、とてつもない方です。

私たちに見えていない所までしっかり見えていて、その上で事をなされるんです。
私たちが知らない事までちゃんとわかっていて、その上で「これをしなさい、あれをしなさい」って言われるんです。

そんな物凄い神様を信じているって事を忘れちゃいけない。

って事は、わからなくても、納得いかなくても、とにかく信じていていいんだと思う。
わからなくても、納得いかなくても、「え~?そんな事したら大変になっちゃう!」って思う時でも、とにかく従ってみたらいいんだと思う。

それが俗に言う「信仰の一歩」ってやつだね。

神様の道は私の道より高く、神様の思いは私の思いより高いから。

こんな神様を信じていられるって、最高だね。


今日、信仰の一歩を踏み出してみませんか?

2015年1月12日月曜日

すべて疲れた人、重荷を負っている人は...

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
(マタイ11:28-30)

先日、ある牧師先生ご夫妻にお会いしたら、こんな事を言っておられました。「私は人生で今が一番幸せなんです。」

素敵な言葉ですね。私も毎日幸せですが、「今が一番幸せ」...って言えるようになりたいな、と思います。

ただ、現実問題、人生って山あり谷あり...いい事ばっかりじゃないし、結構疲れるよね...って思う事もあるかも。

石川啄木じゃないけど、「働けど働けど我が暮らし楽にならず」...って感じることもあるかも。

もちろんいい事、最高な事、素敵な事...もあるんですよ。でも、そうでない事もいっぱいある。
そんな中で重荷を背負い続けて、疲れてしまう人も少なくないでしょう。

イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」 なんて優しい言葉なんでしょう。こんな言葉かけられたら、喜んでイエス様の所に行って、ソファーに座って、何もせずにイエス様に疲れ切った心を癒してもらおう...って思いますよね。

でもこのみことば、28節で終わらずに、ちゃんと30節まで読まないといけない。
イエス様は「わたしの所に来なさい。そこで何もせず休んでいなさい」とは言っておられないんです。

確かに「わたしがあなたがたを休ませてあげます」とは言ってるけど、その次に「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」って言ってるでしょう?

くびきを負う、って言う事は、イエス様と一緒に歩みなさい、って事です。

今の時代「くびき」って言ってもピンと来ないかもしれないけど、当時の人たちはそこら中で目にしていた農耕具の一つでした。どういう時に使っていた農耕具かと言うと、牛を休ませる時じゃなくて、牛を働かせるときに使う道具でした。

2頭の牛があっちゃこっちゃに行かないように、同じ方向に同じペースで歩くように使ったのが「くびき」でした。

つまり、イエス様は「わたしの所に来て、ゆっくり休みなさい」と言ってるのではなくて、「わたしの所に来て、わたしと一緒に歩みなさい」って言ってるんです。

え~?疲れてるのに休めないの~?と思うけど、30節で「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いから」大丈夫、って言ってますね。

私たちの心が疲れてしまうのは、気が付かないうちにイエス様から離れて一人歩きを始めているからです。
「いや、私はイエス様信じてます。信仰は大丈夫です」と言わず、しっかり正直な目で自己吟味をしてみましょう。

そしてイエス様と一緒に歩む歩みをもう一度やり直してみましょう。

疲れているからこそ聖書を読み、疲れているからこそ祈り、疲れているからこそ教会に行き、疲れているからこそイエス様のために仕える...人間的には「え~?疲れている時にそんな事したらもっと疲れる~」って思う内容かもしれません。

人間的には疲れている時は何もせずに休んで、元気になったらまた復帰したい...と思います。

でも、本当の心のエネルギーはイエス様と共に歩む時に初めて充電できるんです。

私も社会人だった時、この世にもまれて疲れ切ってた時がありました。信仰のアップダウンがあって、ダウンの時が何回もありました。

でも、頑張って教会に行き続けました。奉仕を続けました。喜びによってではなく責任感によって...だったような気がします。でもそうしているうちに気が付いたらまた信仰が上向きになっていました。元気を取り戻していました。

疲れたら、イエス様の所に行って、イエス様のくびきを負って、イエス様と一緒に歩む。

今度心が疲れたら、だまされたと思って試してみてください。

2015年1月6日火曜日

聖書...こう言う気持ちで読んで学ぼう

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(2テモテ3:16-17)

取扱説明書を読むのが趣味...と言う人いますか?特に使わない物でもとにかく取扱説明書を読んで、その製品を知っておきたい...もしかしたらいるかもしれませんが、私はその一人ではありません。

アメリカで本棚とか勉強机を買うと自分で組み立てなければならない物が結構あります。ある日、子供たちの新しい勉強机を組み立てていたんですが、「このくらい簡単」と思って説明書をよく読まずに組み立て始めました。

途中でなんか変だな...と思って初めて説明書を開いて照らし合わせてみると、パネルの1枚が裏表反対についているではありませんか。「あらら...」と思って直そうと思ったら、そのパネルに取り付けた他の部分を全部外さなければならず、倍の時間がかかってしまいました。

説明書って大事ですね。

聖書はクリスチャンライフの説明書です。

罪の中でずっと生きて来た私たちは罪のライフスタイルが身についています。でもイエス様を信じて、新しいライフスタイルを始めたわけですが、どうしたらイエス様が求めておられる、聖い生き方をすればいいかわかりません。

そこで聖書が必要になるんです。聖書と言う取扱説明書を読みながら、新しいライフスタイルを一歩ずつ進めて行くんです。

机を組み立てる時、一つのパネルを取り付けるごとに説明書を確認するように、一歩進むごとに聖書を確認するんです。そう考えるとやっぱり毎日読む必要がある事がわかるでしょう。

でもただ読めばいい...わけではありません。ただ知識を蓄えればいい...わけでもありません。
どんな物でも、説明書を読んだら、そこに書いてある通りにやってみるでしょう?同じように聖書を読む時、底に書いてある通りにやってみて初めて聖書の価値が現われるんです。

聖書は私たちがどのように生きるべきか教えてくれます。私たちが道を踏み外している時、戒めてくれます。そして正しい歩み方を教え、矯正してくれます。そして罪の生き方に染まっていた私たちが義の生き方をするように訓練してくれます。

聖書は神の霊感によるもの...言語では「神の口から吐き出されたもの」と言う意味合いがある表現になっていますが...つまり、神様の言葉です。神様が私たちに語ってくださっている言葉です。

私が聖書を読む時、神様が私に語り掛けておられるんですね。

つまり、聖書を読む時、神様が「こうやって生きてごらん」って教えてくださっているんです。
それに対して「ああ、そういう意味だったんですか。また少し賢くなりました」と言っても、実際に神様が言われているように生きていなかったら...結構滑稽ですよね。

聖書を読む時、ただ知識を蓄えるだけじゃなくて、読んだことを適用して、実践して、義の道を歩むように変えられていく...そういう読み方、学び方をしたいものです。

読む前に、学ぶ前に、「今日は何を神様は語ってくださるだろうか?どのように適用して神様のために生きることができるだろうか?」って言う思いで聖書を開きたいものです。

ヤコブも言っています。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

今日、聖書を読みましたか?
今週、聖書を学びましたか?

読んだ事、学んだことを実行に移してみましたか?

2015年1月1日木曜日

新しいスタート

新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

新年のシアトルは快晴です。珍しいほど、きれいな青空が広がっていて、朝日がまぶしいほどに輝いています。


新しい年、新しいスタート。

世界の初め...新しいスタートは光で始まりました。

神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。(創世記1:3)

人々が闇の中を歩んでいた時...神様から遠く離れてしまっていた時、光が来ました。

やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。
死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。(イザヤ9:2)

今年、どんな「光」を神様が私たちの歩みの上に照らしてくださるか楽しみです。

暗い道を懐中電灯で照らしながら歩く時、自分の足元とちょい先しか見えません。
暗い道を車で走る時、ヘッドライトが照らしている部分しか見えません。

照らされていても、全部は見えません。
でもそれでいいんです。

神様が照らしてくださる道を一歩ずつ進んで行けば、少しずつその先が見えてくるからです。

新しい道を開き、新しい道を照らし、新しい祝福を注ぎながら導いてくださる神様。
この神様が今年も一緒です。

開かれた道を、照らされた道を一歩ずつ神様について歩みながら、そこにある素晴らしいご計画を味わいましょう。

(こやつ、元旦からブログやっとる...と思ってる人もいるでしょうね。子供たちはまだ寝ているので...笑)