2015年2月20日金曜日

世界で一番大きな愛

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。
(ヨハネ15:13)

神様が私を愛しているなら、どうしてこんなに辛い目に合わせるの?

誰もが思った事のある疑問かもしれませんね。
確かにその通り、って思いたくなります。

神様は愛の神様。でも今置かれている状況の中ではその愛が見えない。
どうして苦しませるの?どうして癒されないの?どうして次から次にいろんな事が起こるの?

私たちは毎日の生活の中に神様の愛を探します。見える時もあれば、見えない時もある。
見えない時...苦しくなります。そして疑いが湧いてきます。信仰が揺さぶられます。

でもね、神様の愛はもうすでに注がれているんですよ。
あなたはもう既に世界で一番大きな愛をいただいているんです。

それは十字架の愛。イエス様があなたを救うためにご自身を犠牲にしてくださった、あの愛。
あなたが神様に対して犯してきた罪の罰を、あなたの代わりに受けてくださった、あの愛。
背中の肉を、骨が露出するまで引き裂かれ、出血多量になるほど血を流され、立っているのもやっとの状態で十字架を担がされ、十字架に釘で打ち付けられて、3時間も気が狂いそうな痛みに耐えてくださった、あの愛。

あれよりも大きな愛はこの世に存在しない...そんな愛をあなたはもう受けているんです。

でも私たちは、そんな愛よりも今日の試練から助け出してくれる愛の方がいい...って言うんです。
その愛もいいけど、今抱えている病気を癒してくれる愛の方がいい...って言うんです。

これって、100億円くれた人に、「どうして今月のお小遣いくれないの?」って言ってるようなもんだよね。

ローマ8:32にこう書かれています。 
「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

世界で一番大きな愛を注いでくださった神様は同じ愛で今日もあなたの必要を満たし、あなたの心を支え、あなたのために一番いい事をしてくださっています。

それは必ずしもあなたが期待している愛し方ではないでしょう。

あなたは試練から助け出す愛を探しているけど、神様の愛は試練の中であなたを励まし、あなたと一緒に歩んでくださる愛なのかもしれない。

あなたは病気が癒される愛を探しているけど、神様の愛は病気の中であなたを励まし、痛みに耐える力を与え、永遠への希望を思い出させ、あなたと一緒に歩んでくださる愛なのかもしれない。

あなたは自分の進もうとしている道を祝福してくださる愛を探しているけど、神様の愛はその道を閉ざして、あなたのために本当の意味で一番いい道を開いてくださる愛なのかもしれない。

神様はひとり子をあなたのためにささげてくださいました。
イエス様はいのちをあなたのためにささげてくださいました。

あの愛じゃ足りないですか?もっと愛が欲しいですか?
十字架の愛で十分じゃないですか?

十字架の愛を信じてみてください。

今日神様があなたの生活の中でされている事は、十字架の愛によってしてくださっている事です。
今日神様があなたの生活の中であえてされないでいる事は、十字架の愛によってされていない事です。

あなたは今日も愛されています。

世界で一番大きな愛で、愛されています。

2015年2月11日水曜日

どれがみこころの道?

あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
(イザヤ30:21)

進路を選ぶ時、就職先を選ぶ時、結婚相手を選ぶ時、引っ越し先を選ぶ時...どれがみこころなんだろう、って困ってしまう事がありますよね。(できれば結婚相手の場合は気持ち的にはっきりしていたいけど)

罪かどうか...だったらまだ聖書を読めば答えがあると思うけど、A社とB社...どっちがみこころ?みたいな事になると、難しいんじゃないかな。複数の選択肢があって、どれをとっても神様から離れるわけじゃないし、神様に従う妨げになるわけでもないし...そう言う時どうしたら神様のみこころがわかる?

「神様にこうしなさい、って示されました」って言う人に時々出会うけど、いつもすごいなぁって思う。私はそんなに神様の声がはっきり聞こえるわけじゃないし、自分のしたい事とか自己中心的な気持ちがミックスしちゃうから、本当に神様から示されているのか、自分の思いなのかはっきりわからない事の方が多いんですよ。

時には神様のためにしようと思っているのに道が開かれなかったりすることもある。僕はカナダの神学校を卒業してから、道が開かれるまで2年間かかりました。「神様に仕えようとしているのになぜ?」って思ったものです。あの時は結構苦しかったですね。

神様のご計画ってなかなかわからないものですよ。なんたって相手は神様で、自分はしがない人間ですから。あのパウロでさえ言ってます。「その(神様の)道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)。

でも神様はみこころを行ないなさい、って言うし...。わたしの道を歩みなさい、って言うし...。
困ったもんです。どうしたらいいんだろう?

私の「みこころ見極め法」は結構原始的で、シンプルです。ある意味、これなら間違いない...って方法じゃないかな。それは「扉を叩いて開いたら進む」方法です。

イスラエルがヨルダン川を渡った時、彼らは川の前で水が止まるのを祈って待っていた...わけじゃない。ヨシュア3章を見ると、契約の箱をかつぐ祭司たちは水がまだ溢れんばかりに流れているヨルダン川に入って行きました。すると、水がせき止められて、彼らの前に道が開かれ、彼らは進んで行きました。

まさにこれです。まず、神様のみこころを求めて祈りながら、扉を叩いてみる。つまり、一つの方向に一歩進んでみるんです。就活や進路であれば、問い合わせてみる。申し込んでみる。

何回問い合わせても連絡が取れない、返事が来ない。そう言う時は神様が扉を開いていない、と言う事でしょう。でも次のステップに進める返事が来たら、とりあえず神様が最初の扉を開かれたわけです。そのまま進んで、次の扉を叩いてみる。神様が開いてくれたら、また進む。でも開いてくれなかったら...残念だけど、そこはみこころではない(或いはみこころの時ではない)んでしょう。そこでいつまでも頑張ってないで、別の扉を探し始めた方がいいかもしれない。

自分の思いが強ければ強いほど、閉まってる扉をこじ開けたくなるものです。神様に「何とか道を開いてください」って祈って、祈って、祈って、神様を何が何でも動かそうとしたくなるものです。

でもね、主権は神様にある事を忘れないで。私たちのみこころを神様がサポートしてくれるんじゃなくて、神様のみこころに私たちがついていくんです。私たちがしたい事に神様がついてくるんじゃなくて、神様のみこころに私たちが着いて行くんです。

動機が「神様のため」じゃなかったら、十中八九みこころではないけど、たとえ動機が「神様のため」であってもそれが「みこころ」とは限りません。

神様のみこころは測り知れない。そんなに簡単にわかるもんじゃない。
その事を念頭に置いて、一歩、一歩、神様に伺いながら、扉を叩いて、開かれたら進み、閉ざされたら別の扉を探す...時間はかかるかもしれないけど、これが一番確実な「みこころ見極め法」です。


今日、あなたはどの扉を叩き、どの扉をくぐりますか?

2015年2月7日土曜日

神様に喜ばれる礼拝

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。
あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。
たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、
穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。
あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。
あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。
わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。
(アモス5:21-23)

「いやぁ、今日はいい礼拝だった」
「今日の賛美、めっちゃ熱かったよね」

このように言えるって素敵だと思います。それだけ真剣に礼拝に臨んでいると言う事でしょう。
神様が同じように言って下さったら、もっと素晴らしいと思いますね。
でも必ずしも、私たちの礼拝評価と神様の礼拝評価は同じではないのかもしれません。

カインは普通に穀物のささげ物をささげました。アベルは羊の中から最良のものをささげました。
二人とも、ちゃんとささげ物をささげました。二人とも、ちゃんとささげたので、それなりに満足していた事でしょう。
でも神様はカインのささげ物を拒絶し、アベルのささげ物だけを受け入れられました。

イスラエル人は神様に言われた通りにきよめの集会をして、いけにえをささげていました。
全焼のいけにえもちゃんとささげていました。それだけじゃなくて、穀物のささげ物も、和解のいけにえも、ちゃんと神様に言われた通りにささげていました。賛美の歌も歌っていました。

ちゃんと言われた通りにしていたので、きっとみんな満足していた事でしょう。

でも神様は全然満足されていませんでした。神様は全然喜んでいませんでした。

礼拝は誰を満足させるものでしょう?
礼拝は誰を喜ばせるものでしょう?

神様です。

バンドが上手に演奏して、雰囲気を盛り上げて、みんなで手を上げて歌って、最高の気分になって...この時点で礼拝者は最高に満足しています。気持ち的に満たされています。

「いいメッセージ」を聞いたら、恵まれたような気がします。いい礼拝だったような気がします。

でも、神様は満足されているでしょうか?神様は喜ばれているでしょうか?

神様が喜ばれる礼拝はどんな礼拝でしょう?1サムエル15:22でこう言われています。

主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

気持ちを込めて「あなたを愛します~」って賛美するだけではなく、日々神様を愛する愛によって、そのみことばに従う生活をする時、それが真の礼拝となって、神様はその賛美を喜んでくださいます。

いいメッセージを聞いて感動するだけではなく、語られた事に応答して、実践して行く時、それが真の礼拝となって、神様はその応答を喜んでくださいます。

あなたの礼拝は自分の満足でとどまっていませんか?

神様に喜ばれ、受け入れられる礼拝を心がけてみませんか?