2014年12月28日日曜日

イエス様が愛したように愛すると言う事

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ14:34)

「汝の隣人を愛せよ」と言うのはクリスチャンでなくても聞いた事があるフレーズですね。
それだけ、「クリスチャンは愛に満ちた人」と言う先入観と期待があるようです。

確かにその通りです。イエス様に愛されて救われた私たちはやっぱり愛に満ちた者でありたいですよね。
現にイエス様も「互いに愛し合いなさい」と言ってます。

でも「互いに愛し合う」ってどういう事でしょう?

優しい事。寛容である事。怒らない事。何があっても受け入れる事...等々。
バイブルスタディしてるとこういう意見が出てきます。こうやって読んでても似たような事が頭に浮かんでるかもしれません。そしてこういう人になろうと努力している自分がいるかもしれません。

でも、本当にそれがイエス様の言っている「愛する」って事なのかな?

ここでは特に「わたしがあなたがたを愛したように」って書いてあります。これを見落としちゃいけない。
イエス様は、私たちにただ「愛し合いなさい」と言ってるのではなくて、「わたしがあなたがたを愛したように愛し合いなさい」って言ってるんです。

私たちに対するイエス様の愛ってどういう愛だったでしょうか?
やっぱり「十字架の愛」ですよね。

十字架の愛ってどういう愛でしょう?
十字架の目的は...私たちの救いです。

罪の中で、罪に染まり切っている私たちを救い出して、神様の御前で「聖く、傷のない者にしようと」(エペソ1:4)するための神様の愛の切り札が十字架です。

つまり、イエス様の愛は私たちを救い、イエス様に似た者へと変えようとする愛です。

それと同じ愛で互いに愛し合いなさい...それがこのイエス様の言葉なんです。

だって...ちょっと考えてみてください。

私が一般的に言う「愛のある人」となって、いつもニコニコして、あなたを受け入れて、あなたがどんな罪を犯しても赦してあげて、優しくして、怒らない...そう言う態度でいたとします。

あなたは私が本当に愛にあふれた人だなぁ、と感動するでしょう。

でも最終的にあなたがイエス様を知らないまま、救われずにいるとしたら、私は本当に愛をもって接していたと言えるでしょうか?

或いは、あなたがクリスチャンだったとして、そのあなたがある罪を犯し続けているにも関わらず、寛容な心であなたを受け入れて、「ありのままでいいんだよ」と言って優しい言葉をかけ続けたとします。

でもあなたはその罪のせいでどんどん神様から離れいく一方。
その横で私はニコニコして、優しく、愛のある態度であなたを霊的に見殺しにしています。

私は本当に愛をもって接していたと言えるでしょうか?

本当の愛...それは人を救いに導き、救われた人を更にイエス様に近づけるよう、成長するよう導いてあげる愛です。

「最近、神様との関係どう?聖書読んでる?祈ってる?」
「教会休みがちだね。どうしたの?話そうか?」
「今してる事は神様喜ばれないと思うよ。悔い改めた方がいい。一緒に祈らない?」


あなたはイエス様の愛であなたの友達に接していますか?

2014年12月20日土曜日

クリスマスに見るイエス様の愛

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
(ピリピ2:6-7)


クリスマスはイエス様の誕生日。神のひとり子が人となって生まれた日。

宿に場所がなかった。あなたの心にはイエス様の場所がありますか?
羊飼いはイエス様を見に駆けつけた。あなたもイエス様の元に駆けつけよう。
博士たちはイエス様に贈り物をささげた。あなたはどんな贈り物をささげますか?

いろんなクリスマスメッセージがありますよね。
とは言っても、牧師としては毎年違う「ネタ」で語るのは結構大変なんですよ...限られたクリスマスの聖書箇所から毎年毎年...やっぱネタ切れを感じることもしばしば...(笑)

そんな中でふと考えた事がありました。

神のひとり子が人となるって一体どんな感じだったんだろう?

まず、「赤ん坊」から始まりました。

神様なのに「人間」のお世話にならなきゃいけない。
神様なのに「人間」におむつを替えてもらわないといけない。
神様なのに「人間」に食べさせてもらわないといけない。
神様なのに「人間」に抱っこしてもらわないといけない。

で、成長して少年になって、大人になって...

神様なのにA地点からB地点に行くのに歩かなきゃいけない。疲れる。
神様なのに食事しないとお腹が空いちゃう。
神様なのに怪我したら血出るし、痛い。

めっちゃ面倒くさい。不便。大変。

そして...

神様なのに「人間」に反発されて
神様なのに「人間」に捕まえられて
神様なのに「人間」に鞭で打たれて
神様なのに「人間」につば吐きかけられて
神様なのに「人間」に十字架につけられて
神様なのに「人間」に殺されて

めっちゃ屈辱。
僕だったらそんな事になるってわかってたら絶対行かない。
それでもどうしても行かなきゃいけないとしたら、めっちゃ気が重くて、憂鬱になる。

でも、イエス様は来てくださった。いやいやじゃなくて...むしろ、御使いに賛美されながら生まれて来られた。

それはもっと先にある「救い」と言う大きなご計画のため...イエス様を十字架につけた張本人である私とあなたの救いのため。

ここにイエス様の大きな愛が見える。

クリスマス...それは単に「救い主がお生まれになった」日じゃない。

それは全能者であり、創造主である神様が、被造物である私たち人間の姿となって、私たちを救うために不可能な一歩を踏み出してくださった日。

イエス様、ありがとう。

2014年12月15日月曜日

普段のあなたが本当のあなた

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
(ホセア6:6)

神学校にいた頃、礼拝の時間に、私の前に若い大学生の女の子がいました。賛美の間中、彼女は顔を天に向けて、手を上げて、とても入り込んで歌っていました。とても美しい光景でした。

メッセージが始まりました。ふと気が付くと、彼女は...ファッション雑誌を読んでいました。

え???さっきの賛美の姿は何だったの??

ある引越し屋さんで働いている友人から聞いた話ですが、ある日、友人の知り合いの牧師が会社に電話してきて散々文句を並べたてたそうです。かなりひどい言い方だったとか。対応したのは友人ではなく、別のノンクリスチャンの社員。電話を切ってから一言、「あの人、牧師なんでしょう?」

耳が痛い話です。私自身もお客様サービスに電話して喧嘩したことあるかも。

賛美の時、礼拝の時、教会にいる時、「クリスチャン」でいることはある意味簡単かもしれません。
でも月曜日から土曜日まではどうだろう?

時折、教会に聖書を忘れて帰る人がいるけど、中には信仰を忘れて帰る人もいるのかもしれない。

イスラエル人は、日頃散々偶像崇拝をしていながら、いけにえだけは律法通りささげていました。
神様はそれに対して、「よく忘れなかったね。感心、感心。」とは言ってくれてません。
むしろ、「そんなもんはいらん!」と言ってます。

厳しいですね。

神様は決して「完璧」を求めているわけじゃない。
神様は「一貫した信仰の姿」を求めておられるんです。

日曜日に教会で神様に礼拝をささげるなら、月曜日から土曜日までも同じように神様に心を向けて過ごしていてほしいんです。

月曜日から土曜日まで、神様に対して不従順な生き方をし続けているなら、どんなに日曜日に教会で手を上げて賛美しても、熱心に祈っても、メッセージに感動しても、それは神様の目には「意味がない」んです。

アモス5:23にはそんな人たちの賛美を神様は「歌の騒ぎ」と呼んでいます。

夫婦関係で考えてみたらわかりやすいかも。

毎日会社で浮気してる夫が、家に帰って来て妻に「愛してるよ。君なしでは生きていけない。」って言ったら妻は満足するかな?絶対しないですよね。

信仰生活はイエス様との夫婦生活だと思ったらいいかも。
やっぱり日曜日だけいい顔しててもダメなんですよね。むしろ毎日が大事なんです。
教会のあなたが本当のあなたなんじゃなくて、普段のあなたが本当のあなたなんです。

月曜日から土曜日までも日曜日と同じ「クリスチャン」として歩みたいですね。

普段のあなたはどうですか?

2014年12月12日金曜日

どうして信じてるの?

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)

あなたはどうしてイエス様を信じたんですか?
あなたはどうしてイエス様を信じているんですか?

人によっていろんな理由があるかもしれない。

信じたら天国に行けるから。(永遠のいのちをいただけるから)
信じたら幸せになれるから。
信じたら病気が癒されるから。
信じたら神様の祝福があるから。

まじ?

これってなんか「自分のため」だね。
自分が何か受けられるから信じてる...それってご利益宗教じゃない?

でもイエス様信じても、苦しい事あるよね。病気になる事もあるよね。必ずしも祝福で満たされてる、って感じられない事あるよね。

使徒たちの姿見てると、信じる者の人生は決して「楽」な人生じゃない事がわかる。
彼らはムチで打たれ、牢獄に入れられ、常に迫害されてた。

俗に言う「幸せな人生」じゃないよね。

今の時代、一生懸命神様に仕えている人たちが迫害されて、逮捕されて、拷問受けてたら、みんなきっと「神様どうして?」って言ってると思う。

神様を信じてるなら祝福と幸せな人生が待ってる...って期待してるから。

でも使徒たちはそんな中でも「喜び」を持ってた。賛美してた。語り続けていた。信じ続けてた。

今のクリスチャンと使徒たち...何が違ったんだろう?
信じる理由が違ったのかもしれない。

彼らは天国に行きたいから信じてたんじゃない。幸せになりたいから信じてたんじゃない。祝福されたいから信じてたんじゃない。

彼らは神様の愛を体験して、神様の愛に心打たれて信じてたんだ。

神様が罪だらけの私を救うためにそのひとり子をささげてくださったその愛に。
神様に逆らい続けていた私たちを救うためにイエス様が鞭でズタズタにされ、十字架に釘づけにされて、命を投げ出してくださったその愛に。

救われる価値のない私を見捨てず、追いかけ続けて、そして救ってくださった神様の愛に心打たれて信じたんだ。

自分が何か受けられるから信じるんじゃない。
もうすでに受けたから信じるんだ。

自分のために信じるんじゃない。
こんなに私を愛してくださった神様がいる。その愛に応えて、今度はこの神様のために私が生きる...そのために信じるんだ。


あなたはどうして信じてますか?何のために信じてますか?

2014年12月8日月曜日

感謝いっぱい!(その2)

いま持っているもので満足しなさい。
(へブル13:5)

アメリカでは11月に感謝祭(Thanksgiving)があります。
みんなで日頃の恵みと祝福を感謝してターキー(七面鳥)のご馳走を食べます。

翌日はBlack Fridayと呼ばれ、どのお店も超特大セールが行われます。
夜中から長い列が店の前にでき、ショッピングモールは身動きが取れないほど混雑し、多くの店では人をかき分け、押しのけ、超特価商品をめぐる争いが繰り広げられます。

ある人がこんなことをインターネットに載せていました。
「アメリカでは人々は感謝祭の日に与えられている物を神様に感謝するけど、その数時間後にあたかも何も持っていないかのように、必死に買い物をしている。」

「感謝します」と言うのは簡単です。
「感謝します」と祈るのは簡単です。

でも「感謝します」と言う生き方をするのはどうでしょう?

クリスチャンは食前の祈りをしますね。
食事の前に「この食事を感謝します」と祈ります。

そして食べ始めて...ある人たちは(特に子どもたちかな)、「これ嫌い!」「これ食べたくない!」とか言いますよね。(我が家でもよく見られる光景かも)

大人も決して例外じゃありません。
「今日、ご飯芯があるね」「ちょっと味薄くない?」「肉、筋だらけで固いし」

そんな時、神様はきっと「あれ?さっき感謝してなかったっけ?」って首をかしげているに違いない。

「感謝します」と言うのは簡単です。
「感謝します」と祈るのは簡単です。

でも本当に感謝してるのかな...?

今与えられている物は感謝してるけど、でももっと欲しい。もっといい生活がしたい。もっと、もっと...

「もっと」...これは欲の言葉です。
そして留まる事のない言葉です。

もっと欲しい、と思って更に良い物を買っても、しばらくしたら更にもっと良い物が欲しくなるでしょう?

新しい携帯を入手しても、更に新しい機種が出たら、今持っている携帯が十分使えていても、新しい機種が欲しくなる...あれがまさに「もっと」現象です。満たされていない心の現われなのかもしれません。(と言う私も決して例外ではないんですが)

言ってる事とやってる事...何にでも当てはまると思う。

愛してる、って言うなら行動で表したい。
信じてる、って言うなら行動で表したい。
感謝してる、って言うなら行動で表したい。

聖書は言います。「いま持っているもので満足しなさい。」

だって、神様は毎日必要な物を必ず与えてくださるから。
って事は、今日必要な物は今日、既に与えられてるんです。

だから「感謝します」って言うだけじゃなくて、満たされて、本当に感謝してる生き方したいと思う。


あなたは今日、感謝してますか?

2014年12月1日月曜日

感謝いっぱい!(その1)

すべての事について、感謝しなさい。
(1テサロニケ 5:18)

「感謝できる事を分かち合いましょう」

教会や学生の集まりでこういう質問を投げかけると、結構考え込む人がいます。
そして絞り出すように「家族」とか「友達」とか...ありきたりの答えで終始してしまったり。

普段、神様に感謝できる事...って改めて考える事ってあまりないかも。

神様が物凄い事をしてくださったとか、祈りに応えてくださったとか、自分の願いどおりにしてくださるともちろん感謝できるんだけど、そういう事ってなかなか毎日あるわけでもないし...あってもいちいち気に留めてないのかも。

むしろ思い通りに行かない事、辛い事、与えられていない物...そういう事ばかりに心が向いて、感謝よりも「お願い」の方が多いかも。

それとか、不平、不満、愚痴...特に神様に向けてるわけじゃないけど、なんかそんな「否定的」な事に心が向いてしまう...そんな傾向があるかも。

でも、聖書は「すべての事について感謝しなさい」って言ってる。
すべての事について...って事は、どんな時でも、どんな状況でも、どんな事にも...って事。

「それは言うのは簡単だけど」って思いたくなる。
でも、感謝できる事って、その気になって見ると結構あるものです...って言うか、めちゃくちゃあるんです。

神様が神様でいてくださる事。
神様が全能でいてくださる事。
全能の神様が「私の神様」でいてくださる事。
こんなにすごい神様が私なんかを心に留めて、愛してくださっている事。
こんなにすごい神様が私なんかをあきらめず、追いかけてくださり、救ってくださったこと。

これだけでも毎日感謝できる。

その他にも...
家族が与えられてる。時には家族ってうざい...って思う事もあるかもしれない。でもやっぱ感謝できる。
友達が与えられてる。友達いなかったら結構孤独だと思う。
住まいが与えられてる。今日、帰って寝る所がある。
食べる物が与えられてる。別に豪華じゃなくていい。食卓に食べ物が並ぶって事は感謝だ。
着る物が与えられてる。今、これを裸で読んでいるのでなければ、あなたも感謝できます。
その他にも、車、コンピューター、携帯、テレビ...与えられている物が沢山ある。

こんな「物質的」なもの以外にも、もっと感謝できる、もっと大切な事もある。

神様が日々導いていてくださる。
神様が共に歩んでいてくださる。
神様が語ってくださる(みことばを通して)。
神様が祈りを聞いていてくださる。
神様が励ましてくださる、慰めてくださる...などなど。

よぉく目を開いて、心を開いて、見回すなら、文句言いたくなる事よりも、感謝できる事の方が多いのかもしれない。

今日、感謝してますか?

今日、感謝してみよう。

2014年11月25日火曜日

How to 御霊の実

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
(ガラテヤ5:22-23)

ハレル~ヤ~ 御霊の実~は~♪
昔、歌で御霊の実を覚えたものです。でも困った事に、毎回、歌わないと御霊の実が出てこない(笑)

御霊の実ってどうやったら結ぶことができるんでしょう?

「もっと愛のある人になろう」「もっと喜びを持とう」「平安で心を満たされなきゃ」「親切な人になろう」って思うんだけど、大抵最初の「愛のある人」でつまづいちゃう。だって、そう簡単に愛のある人になれるもんじゃないですからね。

ガラテヤ5章をよく読んでみて気づいたのは、「御霊の実を結びなさい」とはどこにも書いてないんです。
って言うか、聖書のどこにもそんな事書いてないんです。

そう言われてみると、「実」って結ぼうと思って結べるものじゃない。

木の実を考えてみよう。一生懸命努力して、「う~~~~ん!!!」って力んで、力んで、「ポンッ!」って実を結んでる木なんて見たことない。出産じゃあるまいし...笑。

木は地中の水分や栄養分を吸収して、太陽の光を吸収して、そしてその結果「実」がなるんだ。(もちろん生物学的にはもっといろいろ要素があるんだけど)

つまり「実」って言うのは、「結果」なんです。

御霊の実も同じように、自分で努力して結ぶものじゃなくて、別の努力の結果に過ぎないんですね。

そう思ってガラテヤ5章をもう一度読んでみると...「御霊によって歩みなさい」(16節)、「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」(25)って書いてある。

御霊によって歩む、御霊に導かれる、御霊によって生きる...それがガラテヤ5章後半のテーマであり、メッセージなんです。

じゃ、御霊によって歩む、御霊に導かれて歩むってどういう事?
これだけで本が一冊書けそうな大きなトピックですね。
まず、御霊によって歩むって言うのは、イエス様のみことばに従って歩む、って事。
「聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべての事を思い起こさせてくださいます。」(ヨハネ14:26)

イエス様が話した事...みことばです。これを思い起こさせてくれるのが御霊の働きです。

何かをしてる時に「あ、今、クリスチャンとしてこうするべきだよね」って言う思いが心の中に浮かぶことがあります。御霊が働いている瞬間です。

みことばが心に浮かぶこともあるでしょう。御霊が働いている瞬間です。

みことばを思い起こした時にどうしますか?それに従って歩む...やっぱそれしかないですよね。

もう一つ、御霊によって歩むって言うのは、罪を悔い改めて歩む、って事。
「その方(聖霊)が来ると、罪について、義について、裁きについて、世にその誤りを認めさせます。」(ヨハネ16:9)

何かをしてる時に、「これ罪だよね」って思う事があります。
御霊が働いている瞬間です。

御霊は私たちの罪を指摘してくれます。その時どうしますか?やっぱ悔い改めるしかないでしょう。

御霊によって生きるって言うのは何か超自然的な物を「感じる」事ではなくて、自分の罪を悔い改めて、みことばに従って生きる事です。

罪を悔い改めて、みことばに従って生きているなら、自然に「御霊の実」が結ばれていきます。
これは一晩では起こりません。日々悔い改めて、日々従って行く中で、少しずつ、少しずつ変えられていくわけです。

御霊の実...結びたいですね。
まずは今日、悔い改めて、みことばに従って生きてみましょう。

心に御霊からの罪の指摘、そしてみことばが浮かぶ時、それをしっかりと受け止めて、従っていきましょう。

2014年11月21日金曜日

聞く耳持って

愚か者は自分の道を正しいと思う。
しかし知恵のある者は忠告を聞き入れる。
(箴言12:15)

「信仰は大丈夫なんですよ。」とそのご婦人は言った。

何かの小説の一文のようですが...教会生活に喜びが無い、と相談に来られたご婦人の言葉です。

教会に自分の居場所が見いだせない。心を開いて話せる相手がいない。喜びがない。
こう言う人たちの多くは、神様が何かをしてくれるのを待っています。周りが何かをしてくれるのを待っています。

でも神様は「あなた」が変わることを待っておられるんです。
自分中心の目ではなく、神様中心の目で環境を見るのを待っておられるんです。

信仰の中心がずれると、受け身のクリスチャンになってしまいます。
その事を指摘して、もう一度自分の信仰を見直すことを勧めるた時にこのご婦人が言った言葉です。
「信仰は大丈夫なんですよ。」

お医者さんに行って、最近調子が悪い事を話した時にお医者さんは当然診断をして、「あなたは風邪を引いてます」「あなたは血圧が高いですね」みたいなことを言われるでしょう。

その時に、「いや、私は健康は大丈夫なんです」って言うでしょうか?
言わないですよね?(私は言いませんけど...)

でも、自分の生き方や、自分の信仰のあり方について何かを指摘されると、「いや、私は大丈夫」って頑張りたくなる自分がいるかもしれません。

「信仰は大丈夫なんですよ」...この言葉は「私は変わる必要はありません」って言う言葉です。
ちょっとひねくれた言い方かもしれないけど「あなたのアドバイスは間違ってます」とも取れます。

でもこの言葉を使い始めたら、人は成長しなくなります。成長しない所か、信仰は後退していきます。
サタンの思う壺です。

イエス様も言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
神様からの忠告として聞く耳のある者は、聞いて、受け入れなさい...そう言う意味です。
牧師や信仰の先輩、或いは信仰の友が自分の間違いや弱さを指摘して、忠告してくる時、それは単に「人のアドバイス」ではなくて、その人たちを用いて神様が語っている事を忘れないでいたいものです。

神様がその人たちを通して自分に忠告しているんだ...そう受け止めたいですね。
楽しくはないですよ。でも、良薬口に苦し...時には厳しいアドバイスが私たちは必要なんじゃないかな。

自分が聞きたいアドバイスだけを受け入れる人がよくいます。そういう人は自分が求めているアドバイスをしてくれる人に出会うまで、いろんな人に相談して回ります。

そうじゃなくて、自分が聞きたくないアドバイスであっても、それが自分を神様に近づけてくれるアドバイスであるなら...それがみことばによるアドバイスであるなら...しっかりと聞く耳をもって聞き、そのアドバイスを聞き入れたいですね。

そうすればイエス様に似た者へとまた一歩変えられていくことができるからです。
神様があなたに願っておられる姿へとまた一歩近づく事ができるからです。

あなたのためを思ってアドバイスをしてくれる人がいますか?

その人の言葉をどのように受け止めてますか?

2014年11月17日月曜日

愛されたい?愛したい?

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ13:34)

愛されたい。

これは誰もが持っている願いかもしれない。
愛されたくない...って言う人はいないと思う。
やっぱみんな愛されたい...よね。

神様に愛されたい。
家族に愛されたい。
夫に、妻に愛されたい。
あの人に愛されたい。

人の自然な願いなのかな。人は愛されないと生きていけないから。

イエス様は「互いに愛し合いなさい」って言われた。
うん、うん、だから愛してね...って思う。

教会でも、「ここは教会。クリスチャンの集まり。だからみんな愛をもって接してくれるはず」と言う暗黙の期待がある...ような気がする。

あれ?でもちょっと待って。
イエス様は「互いに愛し合いなさい」って言われたんだよね。
「愛されなさい」じゃない。

「そうそう...互いに愛し合いなさい、って言ってるんだから、あなたも私を愛してね」
どうしてもそこに行ってしまう...やっぱ人は愛されたいのかもしれない。

でも「互いに愛し合いなさい」って言う言葉を私が読む時、イエス様は私に何て語っておられるかって言うと「隣りの人にあなたを愛するように言いなさい」じゃなくて、「あなたは愛しなさい」って言ってるんですよね。

つまり、私たちは「愛される事」じゃなくて、「愛する事」にもっとフォーカスしなきゃいけない。
親子でも、夫婦でも、職場でも、学校でも、教会でも...
人に愛される事よりも、人を愛する事にフォーカスしなさい、ってイエス様は言っておられるんだ。

問題を抱えた夫婦がカウンセリングに来ると、大抵、相手がどんなに愛がないか...って言う話題で終始する。道理で問題が絶えないわけです。二人とも愛する事よりも愛される事ばかり求めてるから。

みんなが「愛する事」を心がけるようになったら、自然に「互いに愛し合う」ピクチャーが生まれてくる。
そうそう...だからあなたも...だから...そうじゃなくて...「まず私が」でしょ。

まず私が愛する事を心がけたら、私の周りには自然と愛が広がっていくんだ。
家庭でも、職場でも、学校でも、教会でも。

まずは愛される事より、愛する事を求めよう。
まずは愛される事より、愛する事を選ぼう。

人を愛する事なら私にもできるけど、人に私を愛させることは私にはできないから。

そして愛したら...愛のお返しを求めるんじゃなくて、ただ、ただ、愛し続けよう。
それが「互いに愛し合いなさい」と言う戒めに従う姿だから。
それが「互いに愛し合いなさい」を実現させるために私にできる唯一の事だから。


愛する事と愛される事...あなたはどっちを求めていますか?

2014年11月13日木曜日

へりくだると言う事

わたしが目を留める者は
へりくだって心砕かれ
わたしのことばにおののく者だ。
(イザヤ66:2)

日本人は「謙遜」が好きですね。

ある先生が言っておられた話を思い出します。

牧師: 「Aさん、これをこの紙に書いてくださいますか?」
A: 「いや、私、書くの下手だから...」
牧師: 「そうですね」
Aさんはえらく怒ったそうです。

できるのに「できない」と言う。
これは「謙遜」ではありません。

賜物が与えられているのに「できない」と言う。
これはむしろ賜物を与えてくださった神様に失礼な態度じゃないかな...と思うんですよね。

神様はへりくだった者に心を留められます。

でも、同時に賜物を十分使って仕える事を喜ばれます。
堂々と確信をもって、喜びをもってみことばを語ることを喜ばれます。
私が信じてるイエス様は最高です!って自慢する事を喜ばれます。

日本人的に言うとこの姿は「謙遜」ではないような気がします。
じゃ、「へりくだる」ってどういう事?

聖書的に「へりくだる」と言うのは、「神様の前でへりくだる」と言う事です。

全能の神様を神として認め、その前に「私は罪深い者です」とひれ伏す事です。
神様の主権を認め、神様が自分の主、自分の王であることを認め、「私はあなたのしもべ。あなたに従うのみです」と明け渡す事です。
神様がなされる事が自分の願った通りでなくても、思った通りでなくても、喜んで受け止める事です。
神様に自分の願いをゴリ押しするのではなく、神様の御心を求め、御心に従う事です。
人の目を気にせず、神様のみことばに従い通す事です。

パウロの手紙を読むとこの事がよくわかります。
パウロの手紙を読んでいると、パウロは全然「謙遜」(人間的な意味で)ではないですよね。
厳しいし、人々の罪をはっきり指摘してるし、しまいには「私を見習ってください」なんて言ってるし...

でも、彼ほど神様の前に謙遜な使徒はいませんでした。
神を神として認め、自分は神様のしもべであることを十分認識していたから...

モーセにしても、エリヤにしても、バプテスマのヨハネにしても...人間的な意味では全然謙遜ではなかったです。

でも彼らはみんな、神様の前にへりくだり、心砕かれた者たちだったんです。
神を神として認め、その前にしもべとしてひれ伏し、従い続けたから。


こういう風にへりくだって生きたいものですね。

2014年11月9日日曜日

祝福はあなた次第

あなたがたあなたの神、主の御声に聞き従うので、
次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
(申命記28:2)

神様の愛は無条件の愛です。
私たちがどんなに汚れていても、罪深くても、愛し続けてくださる愛です。
ローマ8:39でも、どんな物も「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」って書いてあるし...

これは本当に最高ですね。ハレルヤ!

でも、愛してくれてるからって言って、いつでも何でも祝福してくれるわけじゃない。
私たちは時折...と言うか結構、この二つを混同してしまっているような気がする。

神様は私たちを無条件で愛してくださっている。だから無条件で祝福してくださるんだ。
そう思ってたりするんじゃないかな。

「神様は私を愛してくれているのにどうしてこんな苦しみに合わせるの?どうして祝福してくださらないの?」ってよく耳にします。

もちろんいろんなケースがあるから一概には言えないけど、神様そっちのけで自分勝手な生き方していながら「無条件の愛による自動的祝福」を期待している人が結構いるよね。

でも聖書を読んでると、神様は何回も、何回も、しつこいくらい「あなたが従うなら祝福するよ」って言っておられる。

冒頭の箇所もそうだし、2歴代誌16:9にも「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」って書いてある。

イエス様も同じことを言われたよね。「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」(マタイ7:21)

祝福は神様に従う者に注がれる...これが聖書的祝福の公式です。
神様を信じるなら祝福される...のではなくて、神様に従うなら祝福される...なんです。

考えてみると確かに、イエス様信じてます~って言いながら、勝手な事ばかりして「祝福してください」ってのはあまりにも虫が良すぎるような気がしませんか?

「旅行に行くから日曜日教会に行けないんだけど、旅行が祝福されるよう祈ってください。」
「日曜日、仕事の面接があるので、祈ってください。」
「あまり勉強してないんだけど、試験でいい点が取れるよう祈ってください。」

よくある祈祷課題です。

でも、神様の前にやるべき事をせずに祝福を求めてもそれはちょっと無理かも。ちょっと虫が良すぎるよね。

神様からの祝福は「クリスチャン」に注がれるのではなくて、「従う者」に注がれます。

自分がやりたい事があってもそれよりも神様に従う事を選ぶ時、神様は祝福してくださるんです。
人がいい顔しない、ってわかっていても、それでも神様に従う事を選ぶ時、神様は祝福してくださるんです。

自分が愛される事、自分が祝福される事、自分が恵まれる事...そんな「自分、自分、自分」じゃなくて、自分が神様のためにできる事に目を向けて、神様に従う事に心を注ぎ込む...そしたら祝福は求めなくてもついてくるんです。

シンプルなんだけど...「欲」があるから難しく感じるんだろうなぁ。


祝福に満ちたクリスチャンライフ、送りたいですね。

2014年11月6日木曜日

試練と誘惑

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:3)
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。(ヤコブ1:14)

試練と誘惑...両方ともとても身近ですね。毎日の様に試練があり、毎日の様に誘惑があります。
両方ともあまり嬉しくないものですね。試練は無い方が楽だし、誘惑は困るし。

でもヤコブは1:2で「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」って言ってます。
そんなぁ...無理やぁ...って思う。試練を喜ぶなんて...あり得ない...って思う。

でも試練はいいものだ...ってヤコブは言うんです。1:12でも「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

って事は試練は私たちを神様の方に引っ張ろうとするものなんだ。

それに対して誘惑は...私たちの欲が引っ張るもの。そして1:15には「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」って書いてある。つまり、良くは私たちを神様から引き離そうとするものなんだ。ま、当たり前か。

ところで、「試練」と「誘惑」ってギリシャ語では同じ言葉が使われてるのを知ってますか?めっちゃ興味深い事です。「なんで?」って思います。全然違う性質の物なのに...なんで同じ言葉なんだろう?

霊的に想像してみると、試練は聖霊とか御使いが与え、誘惑は悪魔が与えてる...みたいなイメージが浮かびます。

でも現実的に考えてみると、一つの出来事の中に必ずと言っていいほど、「試練」と「誘惑」が混在してるんじゃないかな。

言い換えるなら、一つの出来事に直面した時に、私の右肩の上で聖霊が私にささやき、私の左肩の上で悪魔が私にささやいている...そんなピクチャー。

例えば、交通事故に遭った時、聖霊は「これも神様のご計画の中で起こった事。神様を信頼し続けなさい。」とささやきます。この声に耳を傾けるなら、私の心は神様に向き、事故の中でも神様に近づいて行くことができる。つまり、この事故は信仰の試練になるわけです。

でも、同じ事故の中で悪魔もささやくんです。「神様、君の事愛してるとかなんとか言ってる割には守ってくれなかったね。ひどいね。実は神様なんていないんじゃないの?」 この声に耳を傾けてしまうなら、私の心は神様を疑い、神様を離れて行っちゃう。この事故が誘惑になるわけです。

買い物してても同じ。

欲しい物があった。その時に聖霊が「それ、本当に必要?その分神様にささげられるんじゃない?」ってささやき、悪魔が「おぉ!ずっと欲しがってたじゃん。買っちゃいなよ。献金?また今度すればいいじゃん。」ってささやく。試練と誘惑が同時発生してるんですよ。

どんな事でも同じ。常に聖霊が私の心を神様に向けようとささやき、その横で悪魔が私の心を神様から引き離そうとささやいてる。

聖霊の声に耳を傾けるなら、それは試練となって私を神様の方に引っ張っていってくれる。
でも悪霊の声に耳を傾けるなら、それは誘惑となって私を神様から引き離していく。

要は私が誰の声に耳を傾けるか...それ次第でその出来事が「試練」にもなり、「誘惑」にもなるわけです。

そう思うと、聖霊の声に耳を傾けて「試練」に遭うなら、それを喜びなさい、ってのもなんとなくわかる気がするよね。


今日、誰の声に耳を傾けますか?

2014年11月4日火曜日

神様のスタンダード

狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そしてそこから入って行く者が多いのです。
いのちの至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。
(マタイ7:13-14)

僕の母がクリスチャンになる前、何かあるごとに「信じなさ~い、信じなさ~い、信じる者は救われる~」とふざけて言ってたものです。(どうしてあんな事言ってたのかは全然覚えてませんが)

信じるだけで救われる。
神様はどんな人をも愛をもって受け入れてくださる。

神様って素晴らしい。

うん、うん、その通り。

でも同時に「神様の救いのスタンダードはめっちゃ低い」って言うイメージを受けません?
だって、信じるだけでいいんだもん。誰でもOKなんだもん。

でも本当にそうなのかな?

イエス様は「狭い門から入りなさい」って言われた。
以前、狭い門ってのはイエス様の事だと思ってた。イエス様だけが道だから。いろんなアイディアが出回ってる中で、イエス様を信じる人だけが救われるから。そういう意味の「狭い門」だと思ってた。

ま、確かにそうなんだけど...

文脈を見てみると、この後、「実によってその気が良い木か悪い木かを見分ける事ができる」と言う事をイエス様は語っておられる。(15-20節)

そしてその後の21節では「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」って言ってる。

そして更にその後の24-27節では岩の上に家を建てる、と言うたとえを用いて神様の事を聞いてそれを行なうことの大切さを語ってる。

って事は...「狭い門」って言うのはただ単に「イエス様」ではなくて、「イエス様を信じて、そのみことばに従う」って言う事なんだ!

へぇ~~~なるほど~~~感動~~~。

前にも書いたけど、信じるってのはただ単に「私、イエス様を信じます~~」って言って教会に行くことではなくて、イエス様を愛し、イエス様に従うことなんだよね。

そう思って聖書を読んでみると「従う事」の大切さが繰り返し語られてる。
それが「狭い門」であって、何よりも大切な事だから。
それが神様が私たちに願っておられる事だから。

イエス様は私たちのために真剣に十字架の道を歩まれ、ご自身をささげてくださった。
だから私たちもイエス様のために真剣に聖書に書かれている一つ一つに取り組んでいかなきゃ...イエス様に申し訳ないよね。

「信じるだけでいい」って言うと、神様の救いのスタンダードはとても低く見えるけど、実はこの「信じる」って言う言葉は決して低いスタンダードではないんです。

神様の救いのスタンダード...それは信じて、愛して、従い続けると言う事。
世界中のクリスチャンに知っておいて欲しい、とても大切な事です。


あなたは狭い門をしっかり通っていますか?

2014年10月30日木曜日

みことばに堅く立って

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良い事を言ってもらうために
気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
(2テモテ4:2-4)

日頃、僕は自分を「預言者型牧師」だと思ってます。
預言者って言うのは、単に将来の事を語る人ではありません。
預言者って言うのは、神様が語られた事を人々に告げる人です。

旧約の時代と違って、今は「聖書」と言う神様の言葉があります。ですから、僕しか聞こえない神様の声を取り次ぐ...と言うのではなくて、聖書を通して語られている神様の言葉を取り次ぐ...それが「預言者型牧師」です。

聖書って結構厳しいですよね。
神様は愛の神様だけど...イエス様は優しい、愛の神様だけど...同時に罪を嫌われる、義なる、聖なる方...だから罪に対してはとても厳しく語られます。そして神様に従う事をしつこいほど命じられます。

罪の中に長年生きていた僕たちは、身も心も罪色に染まってます。だからやる事なす事、考える事、感じる事...基本的に罪色なんです。

そんな僕たちが聖書の言葉を読む時、必ずしもいい気分はしない...事があるんじゃないかな。
言われたくない事が書かれてたりします。読むふりしてすっ飛ばしたくなる箇所があります。

そして自分の好きなみことばだけにフォーカスして、それを暗唱して、満足して...そんな事ないですか?

ある先生が言ってました。「私たちの多くはバイキング方式の聖書の読み方をしてる。」
どういうことかって言うと、バイキングレストランでは、好きな物だけお皿に取って、嫌いな物は取りませんよね。
同じように好きなみことばばかり食べて、好きじゃないみことばには手もつけない...って事です。

教会で、人々が聞いて嬉しくなるメッセージをしてたらもちろん人は集まってきます。
「神様は必ずあなたの願いを聞いてくださいます」「献金したら神様がお金持ちにしてくれます」「ありのままのあなたでいいんです」「神様はあなたがハッピーでいてくれることが何より嬉しいんです」

そういうメッセージを聞いて、満足して、嬉しくなって、人々は「満たされた」「恵まれた」と言って帰って行きます。でも、そこに「イエス様の弟子」の姿はありません。「イエス様の姿に似せられる」事もありません。

僕は神様が語っておられる事...神様が私たちに願っておられる事をしっかり伝えて行きたい。
人々が聞きたがっているメッセージを語るんじゃなくて、神様が願っておられるメッセージを語りたい。
人々が教会に来て満足して帰るんじゃなくて、神様が満足してくださる姿に変えられて行って欲しい。

聖書は時には(って言うかしょっちゅう)、厳しい事を語ります。心の触れられたくない部分を突っつきます。
自分の手放したくない物を手放しなさいと言います。自分が避けてきた事に直面しなさいと言います。

どうしてそんな事を言うかって言うと...申命記10:13でこう言われています。「あなたのしあわせのために、私が、今日、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守る事である。」

あなたのしあわせのために...これなんですよ!!

僕たちの罪色の心が感じる「気持ち」は必ずしも健全な気持ちではありません。
いやぁな気分になってもしょうがないんですよ...でもね、それが本当の「しあわせ」に近づく一歩なんです。

怪我の治療をする時、痛いじゃないですか。でもそこに触らないと治らない...あれと同じです。

本当に神様を愛しているなら、神様に、そして神様のことばにしっかりと正面から向かってみてください。

神様があなたに何を語っておられるか...自分の気持ちじゃなくて、人の言葉じゃなくて、神様の言葉にしっかり耳を傾けてみてください。それが神様があなたに願っておられる事なんです。

2014年10月27日月曜日

弟子作り = 弟子になる

それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
(マタイ28:19-20)

昨日、洗礼式がありました。6か月前にシアトルに留学してきた学生が二人洗礼を受けました。とても嬉しそうに洗礼を受けている二人の姿を見て、とても嬉しかったのはもちろん、とても励まされました。

同時に、これからの彼らの成長を祈らずにはいられませんでした。

いつかこんな記事をどこかで読んだのを思い出します。「信じてから最初の3か月、どんなクリスチャンと一緒に過ごすかでその人がどんなクリスチャンになるかが決まる。」

日曜日教会に来て、礼拝してそれだけで満足しているクリスチャンと一緒に過ごす人は、同じように、日曜日教会に来て、礼拝してそれだけで満足しているクリスチャンになります。

積極的に奉仕して、いつも喜んでいるクリスチャンと一緒に過ごす人は、同じように、積極的に奉仕して、いつも喜んでいるクリスチャンになります。

新しくクリスチャンになった人がどのように成長していくか...周りにいる私たちは大きな責任を与えられているんですね。

俗に大宣教命令と呼ばれているマタイ28:19-20でイエス様は「弟子を作りなさい」と言われました。
すべてのクリスチャンに与えられている使命です。

イエス様の弟子の定義は...この箇所を見る限り、「バプテスマを受けて(つまり、イエス様を信じて)、イエス様の戒めを守って生きる人」です。

興味深いのは「弟子になりなさい」とは言われず、「弟子を作りなさい」と言われた事です。
確かにこの言葉は弟子たちに語られたので、あえて「弟子になりなさい」とは言われなかったのでしょう。

でも、この時点ではそこに居合わせた弟子たちはイエス様を見捨てて、逃げて、そしてまた集まってきたばかりの、本当に弟子としての歩みをしていると言っていいのかわからないような人たちでした。

まだまだこれからじゃない?と思えるような人たちでした...よね?

でもイエス様は彼らに「まずあなたがたがしっかりしなさい。成長しなさい。」とは言われずに「弟子を作りなさい」と言われたんです。ここに大きな「鍵」があるような気がします。

弟子を作るためには、伝道しなければなりません。イエス様を知らない人にイエス様を伝えます。

伝道している間、その人は私を見ています。「クリスチャンってどんな人?」「クリスチャンになったらどうなるの?」「クリスチャンになる価値あるの?」 そんな思いで観察してます。

プレッシャーですね。でも、だからこそ自分がしっかりと「世の光」として輝き、「キリストの香り」を放っていなければならないわけです。

その人がイエス様を信じたら...その人はまだクリスチャンの生き方を知りません。どういう風に毎日の中で神様と一緒に歩んで、どういう姿になって行けばいいのか...知りません。

だからその人に「クリスチャンライフってこう言うもんだよ」って見せてあげないといけない。

プレッシャーですね。でも、だからこそ私が「良き模範」となれるよう、しっかりとイエス様を愛して、イエス様を信頼して、イエス様に従っていかなきゃいけない。

あれ?それって「弟子」の姿じゃん!

弟子づくりをしているつもりが、いつのまにか自分が「イエス様の弟子」の姿に変えられていくわけです。

伝道して、人をイエス様に導き、信じた人がイエス様の弟子になれるように導いていく...この「弟子づくり」の過程が実は私を「弟子」の姿に変えてくれる一番効果的な方法なんです。

まさに一石二鳥だね!!


あなたも弟子づくり...してみませんか?

2014年10月23日木曜日

信仰による祈り

何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださると言う事、
これこそ神に対する私たちの確信です。
1ヨハネ5:14

祈りについていろんなみことばがあります。でも、このみことばがないと「祈り」はとってもずれたものになってしまいます。

「求めなさい。そうすれば与えられます。」(マタイ7:7)
「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。」(マタイ17:20)
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)

これらのみことばから「信じて祈ったら必ず神様は聞いてくださる」と多くの人は信じています。
まじで多くの人が信じています。中には「大勢で祈ったら聞かれる」「叫んだら聞かれる」とかいろいろ発展する人もいますが...。

でももしこれが本当だったら...これはとても恐ろしい事ですよ。

だって罪の性質を持っている人間の願いを「信じて祈った」と言う理由だけで叶えていたら「最善としてくださる神様のご計画」ってのはどうなってしまうんでしょう?

僕が欲しい物を「信じて祈った」から神様が与えてくれるとしたら...なんとなく嬉しいけど、それじゃ自動販売機と何ら変わりないじゃん。

クリスチャンであっても僕たちの心には自己中心的な罪の性質がしっかり残ってます。
自分を喜ばせたい、満足したい、もっといい生活がしたい...そんな思いで祈る祈りを神様が聞いてくださるとしたら、神様は本当に僕に一番いい事をしてくださっているだろうか?

それって神様じゃなくて、しもべ/召使のする事じゃない?

イエス様を信じる前の私たちは自分に頼って生きていました。自分の知識、自分の判断、自分の体験、自分の直感...とにかく自分に頼って生きていました。

でもイエス様を信じて、今度はイエス様に頼るようになりました。これ、どういう事でしょう?

自分の知識、自分の判断、自分の体験、自分の直感によって「これが必要」「こうする事が一番」と思う事をイエス様に助けてもらう事...かな?それって頼ってるようで、頼ってないよね。結局自分の思う通りに事を運ぼうとしているわけだもん。

あれください、これください、ああしてください、こうしてください...私は神様が必ずしてくださると信じます!!それはまだ自分がコントロールしてる祈りであって、頼る祈りじゃない。全然頼ってない。これは「信仰」じゃない。

むしろ、イエス様の知識、イエス様の判断、イエス様の導き、イエス様のご計画に頼って、イエス様が一番いいと思っている事をしてください。それが何であれ私は着いて行きますから...これがイエス様を信じて、イエス様に頼るって事じゃない?

だとしたら、祈りもそうでなきゃいけない。

イエス様はゲッセマネで「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」(ルカ22:42)って祈られた。

やっぱこれじゃない?
神様を信じて祈る、って言うのは「神様は絶対この願いを叶えてくださる」と信じて祈ることじゃなくて、神様のみこころが一番なんだ、って信じて祈る事です。

神様のみこころが一番なんだって信じる祈りには「みこころなら」と言う言葉だけでなく思いも含まれてくるようになります。「私はこれを願っているけど、神様が一番いいと思う事をしてください。私はそれを受け入れ、それに従いますから。」 これが本当の信仰による祈りなんじゃないかな。


今日からみこころを求める祈りを始めてみませんか。

2014年10月17日金曜日

あなたもあなたの家族も救われます

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。
使徒16:31

この文章はとても誤解されやすい文章です。
現にとても誤解されています。

私がイエス様を信じたら、私の家族も必ず救われると言う約束...と言う誤解です。

確かにそう読み取れますよね。あなたが主イエスを信じたら、あなたもあなたの家族も救われるよ...って。

極端な人たちは、「私がイエス様を信じているので、私の家族も天国に行けるんです」って信じてる。
でも思い出そう...聖書の約束は「イエス様を信じる人のみが救われる」って事。
イエス様も「御子を信じる者が永遠のいのちを持つ」ってはっきり言ってる(ヨハネ3:16)。

多くの人は「私がイエス様を信じたから、私がイエス様を伝える事で、家族も必ず救われる」って信じてる。
これは素晴らしい信仰です。だからどんどん伝えましょう。

でもこれは「私が信じたら、彼らも必ず救われる」って言う約束ではありません。
もちろんそうであったら最高ですが...でも現実を見てください。確かに一人が救われた結果、家族みんながイエス様を信じるようになった...と言う家族もいます。でも一生懸命伝道しているのに、家族が信じてくれないケース、逆に反対されて迫害されてるケースもあります。イスラムの世界ではイエス様を信じたらその人は家族に殺される...そんなケースもあります。

じゃ、これってどういう意味なんだろう?
文脈を見てみよう。

パウロが捕まっていた牢で地震が起こって、囚人が逃げたと思った看守が自殺しようとした...あのシーンです。パウロたちが逃げていない事を知り、看守はパウロに心を開きます。

パウロとシラスが彼に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。
33節を見ると「彼とその家の者全部がバプテスマを受けた」とあります。

「ほら、やっぱり」って思う前に32節を見ましょう。「そして、彼とその家の者全部に主のことばを語った。」
ここでイエス様を信じたのは看守だけではありません。看守の家族も福音を聞いてイエス様を信じたんです。

ここの約束は「主イエスを信じたら救われる」と言う約束です。
「あなたは主イエスを信じたら救われます。あなたの家族も、主イエスを信じたら救われます。」と言う意味なんです。

どんな人もイエス様を信じる事によってのみ救われます。あなたも、あなたの家族も、あなたの友人も。

だからあなたの家族に...あなたの大切な人たちにイエス様の事を伝えましょう。

彼らがイエス様を信じるように毎日祈りましょう。

2014年10月9日木曜日

僕らは神のかたちに造られたってどういう事?

そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造した。
創世記1:26-27

神のかたちに造られた...ってどういう事だろう?
このテーマだけで本が書ける...って言うか、出版されてる。
神学書を開いてもこのテーマで何ページも使われてる。

「かたち」という言葉の原語を取り上げてああでもない、こうでもない、といろんな事が言われてる。

神様が権威を持っているように、地上でも権威が与えられてる...とか
知的...考える事ができる...とか
感情をコントロールできる...とか

解釈はとめどなく展開している。神学者がもっともらしく書いていると、もっともらしく見えるもんだね。

昔、バイブルスタディでもいろんな意見が飛び交っていて、ディスカッションが盛り上がっていたような記憶がある。

でも聖書学校で教わったのは...「聖書の答えは聖書から」。

神のかたちに似せて...と言うのがどう言う事か、神学者たちが言ってるほとんどの解釈は聖書には書かれてないんですよ。神学者の頭の中から生まれて来た「人間のアイディア」なんです。

聖書は何を教えてくれてるだろう?創世記5:1-2にこんな風に書かれてました。

「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」

普段は読み飛ばしてる箇所だけど...ちょっと注目してみよう。
神様が人を彼に「似せて」造られた。アダムは彼に「似た、彼のかたちどおり」の子を生んだ。

お!!同じ表現だ!!
神様が人を造られた時の表現とアダムが子供を生んだ時(もちろん実際にはエバですが)の表現...「似た」「かたち」と言う同じ表現が使われてるじゃないですか!!

つまり、神様が人を造られた時...それはまさに親から子が生まれたと言う意味合いがあるんです。

子どもは成長していくにつれて、親に似てくるよね。僕も父にそっくり...とよく言われます。喋り方、歩き方、咳のしかたまで似て来た...と言われます。別にそっくりになろうとしてるわけではないんだけど...やっぱ似てくるらしい。

同じように、僕たちも成長していく中で神様に似てくる...そういう存在として造られた、って事なんですよ。

ヨハネ1:12でイエス様を信じたら「神の子どもとされる」と書かれてます。
2コリント3:18で「主と同じかたちに姿を変えられていく」と書かれてます。

もともと神様の子どものように「神様に似せて造られた」私たちは放蕩息子のように勝手に飛び出して行きました。
でもイエス様を信じて、もう一度「神様の子ども」とされ、クリスチャンとして成長していく中で、徐々に神様に似た者とされていく...そんな意味が「神のかたちに似せて造られた」と言う表現には含まれているんですね。

って事は、私たちは成長して、天のお父さんに似た者となっていくように造られているって事。
言い換えるなら、クリスチャンになって神の子とされたなら、成長しないと意味がないって事です。


あなたはクリスチャンとして成長してますか?毎日成長し続けてますか?