2014年12月28日日曜日

イエス様が愛したように愛すると言う事

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
(ヨハネ14:34)

「汝の隣人を愛せよ」と言うのはクリスチャンでなくても聞いた事があるフレーズですね。
それだけ、「クリスチャンは愛に満ちた人」と言う先入観と期待があるようです。

確かにその通りです。イエス様に愛されて救われた私たちはやっぱり愛に満ちた者でありたいですよね。
現にイエス様も「互いに愛し合いなさい」と言ってます。

でも「互いに愛し合う」ってどういう事でしょう?

優しい事。寛容である事。怒らない事。何があっても受け入れる事...等々。
バイブルスタディしてるとこういう意見が出てきます。こうやって読んでても似たような事が頭に浮かんでるかもしれません。そしてこういう人になろうと努力している自分がいるかもしれません。

でも、本当にそれがイエス様の言っている「愛する」って事なのかな?

ここでは特に「わたしがあなたがたを愛したように」って書いてあります。これを見落としちゃいけない。
イエス様は、私たちにただ「愛し合いなさい」と言ってるのではなくて、「わたしがあなたがたを愛したように愛し合いなさい」って言ってるんです。

私たちに対するイエス様の愛ってどういう愛だったでしょうか?
やっぱり「十字架の愛」ですよね。

十字架の愛ってどういう愛でしょう?
十字架の目的は...私たちの救いです。

罪の中で、罪に染まり切っている私たちを救い出して、神様の御前で「聖く、傷のない者にしようと」(エペソ1:4)するための神様の愛の切り札が十字架です。

つまり、イエス様の愛は私たちを救い、イエス様に似た者へと変えようとする愛です。

それと同じ愛で互いに愛し合いなさい...それがこのイエス様の言葉なんです。

だって...ちょっと考えてみてください。

私が一般的に言う「愛のある人」となって、いつもニコニコして、あなたを受け入れて、あなたがどんな罪を犯しても赦してあげて、優しくして、怒らない...そう言う態度でいたとします。

あなたは私が本当に愛にあふれた人だなぁ、と感動するでしょう。

でも最終的にあなたがイエス様を知らないまま、救われずにいるとしたら、私は本当に愛をもって接していたと言えるでしょうか?

或いは、あなたがクリスチャンだったとして、そのあなたがある罪を犯し続けているにも関わらず、寛容な心であなたを受け入れて、「ありのままでいいんだよ」と言って優しい言葉をかけ続けたとします。

でもあなたはその罪のせいでどんどん神様から離れいく一方。
その横で私はニコニコして、優しく、愛のある態度であなたを霊的に見殺しにしています。

私は本当に愛をもって接していたと言えるでしょうか?

本当の愛...それは人を救いに導き、救われた人を更にイエス様に近づけるよう、成長するよう導いてあげる愛です。

「最近、神様との関係どう?聖書読んでる?祈ってる?」
「教会休みがちだね。どうしたの?話そうか?」
「今してる事は神様喜ばれないと思うよ。悔い改めた方がいい。一緒に祈らない?」


あなたはイエス様の愛であなたの友達に接していますか?

2014年12月20日土曜日

クリスマスに見るイエス様の愛

キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
(ピリピ2:6-7)


クリスマスはイエス様の誕生日。神のひとり子が人となって生まれた日。

宿に場所がなかった。あなたの心にはイエス様の場所がありますか?
羊飼いはイエス様を見に駆けつけた。あなたもイエス様の元に駆けつけよう。
博士たちはイエス様に贈り物をささげた。あなたはどんな贈り物をささげますか?

いろんなクリスマスメッセージがありますよね。
とは言っても、牧師としては毎年違う「ネタ」で語るのは結構大変なんですよ...限られたクリスマスの聖書箇所から毎年毎年...やっぱネタ切れを感じることもしばしば...(笑)

そんな中でふと考えた事がありました。

神のひとり子が人となるって一体どんな感じだったんだろう?

まず、「赤ん坊」から始まりました。

神様なのに「人間」のお世話にならなきゃいけない。
神様なのに「人間」におむつを替えてもらわないといけない。
神様なのに「人間」に食べさせてもらわないといけない。
神様なのに「人間」に抱っこしてもらわないといけない。

で、成長して少年になって、大人になって...

神様なのにA地点からB地点に行くのに歩かなきゃいけない。疲れる。
神様なのに食事しないとお腹が空いちゃう。
神様なのに怪我したら血出るし、痛い。

めっちゃ面倒くさい。不便。大変。

そして...

神様なのに「人間」に反発されて
神様なのに「人間」に捕まえられて
神様なのに「人間」に鞭で打たれて
神様なのに「人間」につば吐きかけられて
神様なのに「人間」に十字架につけられて
神様なのに「人間」に殺されて

めっちゃ屈辱。
僕だったらそんな事になるってわかってたら絶対行かない。
それでもどうしても行かなきゃいけないとしたら、めっちゃ気が重くて、憂鬱になる。

でも、イエス様は来てくださった。いやいやじゃなくて...むしろ、御使いに賛美されながら生まれて来られた。

それはもっと先にある「救い」と言う大きなご計画のため...イエス様を十字架につけた張本人である私とあなたの救いのため。

ここにイエス様の大きな愛が見える。

クリスマス...それは単に「救い主がお生まれになった」日じゃない。

それは全能者であり、創造主である神様が、被造物である私たち人間の姿となって、私たちを救うために不可能な一歩を踏み出してくださった日。

イエス様、ありがとう。

2014年12月15日月曜日

普段のあなたが本当のあなた

わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。
全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。
(ホセア6:6)

神学校にいた頃、礼拝の時間に、私の前に若い大学生の女の子がいました。賛美の間中、彼女は顔を天に向けて、手を上げて、とても入り込んで歌っていました。とても美しい光景でした。

メッセージが始まりました。ふと気が付くと、彼女は...ファッション雑誌を読んでいました。

え???さっきの賛美の姿は何だったの??

ある引越し屋さんで働いている友人から聞いた話ですが、ある日、友人の知り合いの牧師が会社に電話してきて散々文句を並べたてたそうです。かなりひどい言い方だったとか。対応したのは友人ではなく、別のノンクリスチャンの社員。電話を切ってから一言、「あの人、牧師なんでしょう?」

耳が痛い話です。私自身もお客様サービスに電話して喧嘩したことあるかも。

賛美の時、礼拝の時、教会にいる時、「クリスチャン」でいることはある意味簡単かもしれません。
でも月曜日から土曜日まではどうだろう?

時折、教会に聖書を忘れて帰る人がいるけど、中には信仰を忘れて帰る人もいるのかもしれない。

イスラエル人は、日頃散々偶像崇拝をしていながら、いけにえだけは律法通りささげていました。
神様はそれに対して、「よく忘れなかったね。感心、感心。」とは言ってくれてません。
むしろ、「そんなもんはいらん!」と言ってます。

厳しいですね。

神様は決して「完璧」を求めているわけじゃない。
神様は「一貫した信仰の姿」を求めておられるんです。

日曜日に教会で神様に礼拝をささげるなら、月曜日から土曜日までも同じように神様に心を向けて過ごしていてほしいんです。

月曜日から土曜日まで、神様に対して不従順な生き方をし続けているなら、どんなに日曜日に教会で手を上げて賛美しても、熱心に祈っても、メッセージに感動しても、それは神様の目には「意味がない」んです。

アモス5:23にはそんな人たちの賛美を神様は「歌の騒ぎ」と呼んでいます。

夫婦関係で考えてみたらわかりやすいかも。

毎日会社で浮気してる夫が、家に帰って来て妻に「愛してるよ。君なしでは生きていけない。」って言ったら妻は満足するかな?絶対しないですよね。

信仰生活はイエス様との夫婦生活だと思ったらいいかも。
やっぱり日曜日だけいい顔しててもダメなんですよね。むしろ毎日が大事なんです。
教会のあなたが本当のあなたなんじゃなくて、普段のあなたが本当のあなたなんです。

月曜日から土曜日までも日曜日と同じ「クリスチャン」として歩みたいですね。

普段のあなたはどうですか?

2014年12月12日金曜日

どうして信じてるの?

しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
(ローマ5:8)

あなたはどうしてイエス様を信じたんですか?
あなたはどうしてイエス様を信じているんですか?

人によっていろんな理由があるかもしれない。

信じたら天国に行けるから。(永遠のいのちをいただけるから)
信じたら幸せになれるから。
信じたら病気が癒されるから。
信じたら神様の祝福があるから。

まじ?

これってなんか「自分のため」だね。
自分が何か受けられるから信じてる...それってご利益宗教じゃない?

でもイエス様信じても、苦しい事あるよね。病気になる事もあるよね。必ずしも祝福で満たされてる、って感じられない事あるよね。

使徒たちの姿見てると、信じる者の人生は決して「楽」な人生じゃない事がわかる。
彼らはムチで打たれ、牢獄に入れられ、常に迫害されてた。

俗に言う「幸せな人生」じゃないよね。

今の時代、一生懸命神様に仕えている人たちが迫害されて、逮捕されて、拷問受けてたら、みんなきっと「神様どうして?」って言ってると思う。

神様を信じてるなら祝福と幸せな人生が待ってる...って期待してるから。

でも使徒たちはそんな中でも「喜び」を持ってた。賛美してた。語り続けていた。信じ続けてた。

今のクリスチャンと使徒たち...何が違ったんだろう?
信じる理由が違ったのかもしれない。

彼らは天国に行きたいから信じてたんじゃない。幸せになりたいから信じてたんじゃない。祝福されたいから信じてたんじゃない。

彼らは神様の愛を体験して、神様の愛に心打たれて信じてたんだ。

神様が罪だらけの私を救うためにそのひとり子をささげてくださったその愛に。
神様に逆らい続けていた私たちを救うためにイエス様が鞭でズタズタにされ、十字架に釘づけにされて、命を投げ出してくださったその愛に。

救われる価値のない私を見捨てず、追いかけ続けて、そして救ってくださった神様の愛に心打たれて信じたんだ。

自分が何か受けられるから信じるんじゃない。
もうすでに受けたから信じるんだ。

自分のために信じるんじゃない。
こんなに私を愛してくださった神様がいる。その愛に応えて、今度はこの神様のために私が生きる...そのために信じるんだ。


あなたはどうして信じてますか?何のために信じてますか?

2014年12月8日月曜日

感謝いっぱい!(その2)

いま持っているもので満足しなさい。
(へブル13:5)

アメリカでは11月に感謝祭(Thanksgiving)があります。
みんなで日頃の恵みと祝福を感謝してターキー(七面鳥)のご馳走を食べます。

翌日はBlack Fridayと呼ばれ、どのお店も超特大セールが行われます。
夜中から長い列が店の前にでき、ショッピングモールは身動きが取れないほど混雑し、多くの店では人をかき分け、押しのけ、超特価商品をめぐる争いが繰り広げられます。

ある人がこんなことをインターネットに載せていました。
「アメリカでは人々は感謝祭の日に与えられている物を神様に感謝するけど、その数時間後にあたかも何も持っていないかのように、必死に買い物をしている。」

「感謝します」と言うのは簡単です。
「感謝します」と祈るのは簡単です。

でも「感謝します」と言う生き方をするのはどうでしょう?

クリスチャンは食前の祈りをしますね。
食事の前に「この食事を感謝します」と祈ります。

そして食べ始めて...ある人たちは(特に子どもたちかな)、「これ嫌い!」「これ食べたくない!」とか言いますよね。(我が家でもよく見られる光景かも)

大人も決して例外じゃありません。
「今日、ご飯芯があるね」「ちょっと味薄くない?」「肉、筋だらけで固いし」

そんな時、神様はきっと「あれ?さっき感謝してなかったっけ?」って首をかしげているに違いない。

「感謝します」と言うのは簡単です。
「感謝します」と祈るのは簡単です。

でも本当に感謝してるのかな...?

今与えられている物は感謝してるけど、でももっと欲しい。もっといい生活がしたい。もっと、もっと...

「もっと」...これは欲の言葉です。
そして留まる事のない言葉です。

もっと欲しい、と思って更に良い物を買っても、しばらくしたら更にもっと良い物が欲しくなるでしょう?

新しい携帯を入手しても、更に新しい機種が出たら、今持っている携帯が十分使えていても、新しい機種が欲しくなる...あれがまさに「もっと」現象です。満たされていない心の現われなのかもしれません。(と言う私も決して例外ではないんですが)

言ってる事とやってる事...何にでも当てはまると思う。

愛してる、って言うなら行動で表したい。
信じてる、って言うなら行動で表したい。
感謝してる、って言うなら行動で表したい。

聖書は言います。「いま持っているもので満足しなさい。」

だって、神様は毎日必要な物を必ず与えてくださるから。
って事は、今日必要な物は今日、既に与えられてるんです。

だから「感謝します」って言うだけじゃなくて、満たされて、本当に感謝してる生き方したいと思う。


あなたは今日、感謝してますか?

2014年12月1日月曜日

感謝いっぱい!(その1)

すべての事について、感謝しなさい。
(1テサロニケ 5:18)

「感謝できる事を分かち合いましょう」

教会や学生の集まりでこういう質問を投げかけると、結構考え込む人がいます。
そして絞り出すように「家族」とか「友達」とか...ありきたりの答えで終始してしまったり。

普段、神様に感謝できる事...って改めて考える事ってあまりないかも。

神様が物凄い事をしてくださったとか、祈りに応えてくださったとか、自分の願いどおりにしてくださるともちろん感謝できるんだけど、そういう事ってなかなか毎日あるわけでもないし...あってもいちいち気に留めてないのかも。

むしろ思い通りに行かない事、辛い事、与えられていない物...そういう事ばかりに心が向いて、感謝よりも「お願い」の方が多いかも。

それとか、不平、不満、愚痴...特に神様に向けてるわけじゃないけど、なんかそんな「否定的」な事に心が向いてしまう...そんな傾向があるかも。

でも、聖書は「すべての事について感謝しなさい」って言ってる。
すべての事について...って事は、どんな時でも、どんな状況でも、どんな事にも...って事。

「それは言うのは簡単だけど」って思いたくなる。
でも、感謝できる事って、その気になって見ると結構あるものです...って言うか、めちゃくちゃあるんです。

神様が神様でいてくださる事。
神様が全能でいてくださる事。
全能の神様が「私の神様」でいてくださる事。
こんなにすごい神様が私なんかを心に留めて、愛してくださっている事。
こんなにすごい神様が私なんかをあきらめず、追いかけてくださり、救ってくださったこと。

これだけでも毎日感謝できる。

その他にも...
家族が与えられてる。時には家族ってうざい...って思う事もあるかもしれない。でもやっぱ感謝できる。
友達が与えられてる。友達いなかったら結構孤独だと思う。
住まいが与えられてる。今日、帰って寝る所がある。
食べる物が与えられてる。別に豪華じゃなくていい。食卓に食べ物が並ぶって事は感謝だ。
着る物が与えられてる。今、これを裸で読んでいるのでなければ、あなたも感謝できます。
その他にも、車、コンピューター、携帯、テレビ...与えられている物が沢山ある。

こんな「物質的」なもの以外にも、もっと感謝できる、もっと大切な事もある。

神様が日々導いていてくださる。
神様が共に歩んでいてくださる。
神様が語ってくださる(みことばを通して)。
神様が祈りを聞いていてくださる。
神様が励ましてくださる、慰めてくださる...などなど。

よぉく目を開いて、心を開いて、見回すなら、文句言いたくなる事よりも、感謝できる事の方が多いのかもしれない。

今日、感謝してますか?

今日、感謝してみよう。