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2015年4月27日月曜日

幸せってなんだっけ?

イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。
「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 これは「あなたを産んだ母親はどんなに幸いなことでしょう!」と言う意味です。イエス様があまりにも素晴らしい話をしていたので、イエス様をほめたたえるだけじゃなく、イエス様の親をもほめたたえているんですね。現代の日本ではこういう言い方はまずしませんが、当時のユダヤ人の文化ではあまり珍しくない、祝福の言葉だったようです。

ま、それはともかく...どういう人を見た時「あの人は幸せな人だなぁ」と思いますか?

事業で成功している人。自分が買えないような物を何でも持っている人。ある分野で優れた能力を持っている人。子供がまっすぐ育っている(ように見える)人。いい学校、いい会社に入った人。マイホームを持っている人。素敵な彼氏、彼女がいる人。

一般的にはこういう人が「幸せ」に見えるかもしれません。そしてそういう生き方を目指し、手に入れようと一生懸命頑張っているかもしれません。

そんなこの世のメガネで、一生懸命神様に従おうとしているクリスチャンを見たらどのように映るでしょうか?「あの人、誰よりも幸せそうだな」って思うでしょうか?皆さんの教会の牧師先生はどうですか?牧師って言うのは確かに簡単な働きではありません。でも、経済的にもっと豊かになれる仕事を辞めて、神様に一生懸命従って仕え、生きているのが牧師です(大半の場合はそうだと思います。そうであって欲しい物です。) そんな牧師の姿を見て、「先生はいつ見ても幸せそうだな」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

牧師じゃなくて、信徒であっても、家族で唯一のクリスチャンで、しょっちゅう家族から嫌味とかを言われながら頑張って信仰を貫いて生きている人はどうでしょうか?会社で唯一のクリスチャンで、価値観の違う人たちに囲まれて、それでも妥協することなくみことばに従って歩んでいる人はどうでしょうか?思い切りこの世の冷たい逆風にあおられて、辛い思いをする事もしばしば...そういう人たちを見た時に「わぁ、あの人すごい幸せそう...私もああいう生き方したいなぁ」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

イエス様は言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

この世は辛い思いをせずに生きる事ができるなら、それが幸せ...と言います。自分の気持ちが幸せの基準なんです。でもどんなにお金があって、どんなに楽しく生きていても、神様に向かって生きていないのであれば、その行き着く所に待っているのは「裁き」であり、「滅び」です。するとそれは決して「幸せ」な生き方ではありませんね。

逆にどんなに辛い思いをしていても、神様のみことばにしっかり従って生きているなら(生きようと心がけ、努めているなら)、その行き先に待っているのは永遠に続く祝福です。神様からの「良くやった。良い忠実なしもべだ」と言う最高の言葉です。

別にみことばに従うと辛い事ばかり、と言うわけではありません。もちろんそこには喜びの道も用意されています。でも、苦しみも必ずあります。何が言いたいかと言うと、嬉しい、楽しい、辛い、苦しい、と言う私たちの気持ちは幸せとは何の関係もないと言う事なんです。本当の幸せはこの世が何と言うかではなく、私がどう感じるかではなく、どこに向かっているか...誰に向かっているか...なんです。

この世の言葉に従うのではなく、自分の言葉に従うのではなく、神様の言葉を聞いて、それに従う時、私たちは幸せの道を歩んでいる事になるんです。

この世の言葉に騙されないでください。この世の考え方、価値観に騙されないでください。この世の生き方に騙されないでください。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」


あなたは今日、幸せですか?

2015年4月4日土曜日

4つの種のたとえ

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:20)

ある人が種を蒔いたら、最初の種は道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。次の種は土の薄い岩地に落ちました。するとすぐに芽を出したけれど、日が上ると焼けて、枯れてしまいました。次の種はいばらの中に落ちました。芽が出て伸び始めたけど、いばらがふさいで結局実を結びませんでした。次の種は良い地に落ちました。そこで芽生え、育って、30倍、60倍、100倍の実を結びました。

ご存知の「4つの種のたとえ」です。本来なら「4つの地のたとえ」であるはずなんですが、なぜか「4つの種のたとえ」と呼ばれています。ま、どうでもいい事ですが...。

少し後でイエス様が解説されています。「種蒔く人はみことばを蒔くのです。」(マルコ4:14)
そして4つの地はそれぞれ蒔かれたみことばをどのように受け止め、応答しているかの違いを現わしています。

道ばたはみことばをちゃんと受け入れない人たち...ただ聞くだけ、読むだけの人たちです。
土の薄い岩地はみことばを喜んで受け入れるんですが、「いいみことば!」で終わってしまうので、根を張らず、困難や迫害の中でみことばに頼る事はなく、すぐにつまずいてしまいます。
いばらの中は、みことばを聞き、理解もします。知識はあります。でも他にもっと大切な物がたくさんあるので、みことばはいつも蚊帳の外...実を結ぶことはありません。
そして良い地はみことばを聞いて受け入れ、従う人たちの事です。

多くの人は「良く知ってる」たとえだと思います。よくメッセージで「あなたはどの地ですか?」と聞かれます。そして多くのクリスチャンが「私はまだまだいばら...」とか言っていたのを思い出します。

でもこの事を知っておいてください。この4つの地で最初の3つは救われていない人の姿です。クリスチャンは良い地でなければなりません。

厳しいと思うかもしれませんが、イエス様の言葉を見てください。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10、7:19)

ヤコブも言いました。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

みことばを実行する事はとても大切です。「私は救われているから大丈夫」と言うのはサタンの嘘です。サタンはあなたにみことばを実行して欲しくないんですよ。だから「あなたは救われているんだから、無理して従わなくても大丈夫...神様は赦してくださるよ」って言うんです。

でもだまされないでください。私たちがみことばを実行する「良い地」でいる事を神様は何よりも望んでおられるんです。もちろん完璧にはできないでしょう。罪を犯してしまう事もあるでしょう。そしたら悔い改めればいいんです。罪を言い表して悔い改める事はみことば(1ヨハネ1:9)を実行している事ですからね。

私たちはみことばを実行できない時、あれこれ言い訳をするのがとても上手です。でもこのたとえはとてもシンプルに私たちの責任を教えています。

まず、みことばを蒔く人がいますね。大抵の場合、牧師だったり、バイブルスタディのリーダーだったりするでしょう。

そしてそのみことばを聞いた人がいますね。これがあなたです。その他には誰もいません。誰かがやって来て地を耕して「良い地」にしてくれるわけではありません。誰かがやって来ていばらを切り取ってくれるわけではありません。みことばを聞いた人がそのみことばをどう受け入れ、どのように応答し、実行するか...それ次第で「良い地」になるかどうかが決まるんだよ、って言う事です。

神様は完璧さを求めているわけではありません。あれこれ言い訳をせずに、みことばを受け入れて実行する姿勢を求めておられる...それがこのたとえの教えている大切な、大切な真理です。


「いいメッセージだった」「このみことば好きなんですよ」から一歩抜け出て、「これ実行してみよう」のみことば生活してみませんか?

2015年1月26日月曜日

もっとも大切な戒め

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。
これをあなたの子供たちによく教え込みなさい。あなたが家に座っている時も
道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これを唱えなさい。
(申命記6:5-7)

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
イエス様は「これが大切な第一の戒めです」と言われました。(マタイ22:38)

うん、うん。そうだよね。神様を愛する事が何よりも大切だよね。
でも何をどうしたら神様を愛する事になるんだろう?

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...これってどういう事?
よくバイブルスタディで「心を尽くすってどういう事?」「精神を尽くすってどういう事?」「力を尽くすってどういう事?」って別々に考えてたのを思い出すけど、これって要は「自分のすべてを尽くして」って事なんです。

じゃ、どうしたら「自分のすべてを尽くして愛する」事になるんだろう?実際何をすればいいんだろう?

イエス様が引用されたのは申命記6:5。僕の聖書にも線がちゃんと引いてある。
6-7節も線が引いてある。でも、5節とは別に覚えてた箇所のような気がする。

5節は自分のすべてを尽くして神様を愛する、って言うもっとも大切な戒め。
6-7節はみことばを心に刻んで、子供たちに教えて、日夜唱えるって言う、みことばに関する戒め。

いや、ちょっと待てよ...でもこれって別々のメッセージじゃなくて、続いてるよね。
って事は、6-7節も「もっとも大切な戒め」の一部なんだ。

自分のすべてを尽くして神様を愛する時、私たちは神様のみことばを心に刻み、神様のみことばを子供たちに教え、神様のみことばを日夜唱えるようになるんだ。

つまり、神様のみことばを愛し、神様のみことばを喜び、神様のみことばによって生きるって事なんだ。

イエス様が「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)って言われたのを思い出します。

神様を愛するって事は神様のみことばを大切にして、従うって事なんだ...しかも心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして...自分のすべてを尽くしてみことばを大切にして、従うって事なんだ。

人間関係でも同じだよね。誰かを愛してるって言いながら、その人の言う事を大切にしてなかったら...「あなた、私の事愛してないでしょ!」って言われるんじゃない?

愛する人が「これしてほしい」「こういうことはしないでほしい」って言う時、やっぱりその言葉を大切にして、その人の願いを聞いてあげたい...そう思うんじゃない?

神様に対する愛も同じ。

「神様、あなたを愛します」って言うなら、自分で勝手に満足する愛し方じゃなくて、神様が喜んでくださる愛し方したい。自分なりに適当に愛するんじゃなくて、みことばを大切にして、喜んで、みことばによって生きたい。

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、神様を愛し、神様のみことばを愛するようになりたい。


あなたも今日、自分のすべてを尽くして神様を愛してみませんか?

2015年1月6日火曜日

聖書...こう言う気持ちで読んで学ぼう

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(2テモテ3:16-17)

取扱説明書を読むのが趣味...と言う人いますか?特に使わない物でもとにかく取扱説明書を読んで、その製品を知っておきたい...もしかしたらいるかもしれませんが、私はその一人ではありません。

アメリカで本棚とか勉強机を買うと自分で組み立てなければならない物が結構あります。ある日、子供たちの新しい勉強机を組み立てていたんですが、「このくらい簡単」と思って説明書をよく読まずに組み立て始めました。

途中でなんか変だな...と思って初めて説明書を開いて照らし合わせてみると、パネルの1枚が裏表反対についているではありませんか。「あらら...」と思って直そうと思ったら、そのパネルに取り付けた他の部分を全部外さなければならず、倍の時間がかかってしまいました。

説明書って大事ですね。

聖書はクリスチャンライフの説明書です。

罪の中でずっと生きて来た私たちは罪のライフスタイルが身についています。でもイエス様を信じて、新しいライフスタイルを始めたわけですが、どうしたらイエス様が求めておられる、聖い生き方をすればいいかわかりません。

そこで聖書が必要になるんです。聖書と言う取扱説明書を読みながら、新しいライフスタイルを一歩ずつ進めて行くんです。

机を組み立てる時、一つのパネルを取り付けるごとに説明書を確認するように、一歩進むごとに聖書を確認するんです。そう考えるとやっぱり毎日読む必要がある事がわかるでしょう。

でもただ読めばいい...わけではありません。ただ知識を蓄えればいい...わけでもありません。
どんな物でも、説明書を読んだら、そこに書いてある通りにやってみるでしょう?同じように聖書を読む時、底に書いてある通りにやってみて初めて聖書の価値が現われるんです。

聖書は私たちがどのように生きるべきか教えてくれます。私たちが道を踏み外している時、戒めてくれます。そして正しい歩み方を教え、矯正してくれます。そして罪の生き方に染まっていた私たちが義の生き方をするように訓練してくれます。

聖書は神の霊感によるもの...言語では「神の口から吐き出されたもの」と言う意味合いがある表現になっていますが...つまり、神様の言葉です。神様が私たちに語ってくださっている言葉です。

私が聖書を読む時、神様が私に語り掛けておられるんですね。

つまり、聖書を読む時、神様が「こうやって生きてごらん」って教えてくださっているんです。
それに対して「ああ、そういう意味だったんですか。また少し賢くなりました」と言っても、実際に神様が言われているように生きていなかったら...結構滑稽ですよね。

聖書を読む時、ただ知識を蓄えるだけじゃなくて、読んだことを適用して、実践して、義の道を歩むように変えられていく...そういう読み方、学び方をしたいものです。

読む前に、学ぶ前に、「今日は何を神様は語ってくださるだろうか?どのように適用して神様のために生きることができるだろうか?」って言う思いで聖書を開きたいものです。

ヤコブも言っています。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

今日、聖書を読みましたか?
今週、聖書を学びましたか?

読んだ事、学んだことを実行に移してみましたか?

2014年10月30日木曜日

みことばに堅く立って

みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。
寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分に都合の良い事を言ってもらうために
気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
(2テモテ4:2-4)

日頃、僕は自分を「預言者型牧師」だと思ってます。
預言者って言うのは、単に将来の事を語る人ではありません。
預言者って言うのは、神様が語られた事を人々に告げる人です。

旧約の時代と違って、今は「聖書」と言う神様の言葉があります。ですから、僕しか聞こえない神様の声を取り次ぐ...と言うのではなくて、聖書を通して語られている神様の言葉を取り次ぐ...それが「預言者型牧師」です。

聖書って結構厳しいですよね。
神様は愛の神様だけど...イエス様は優しい、愛の神様だけど...同時に罪を嫌われる、義なる、聖なる方...だから罪に対してはとても厳しく語られます。そして神様に従う事をしつこいほど命じられます。

罪の中に長年生きていた僕たちは、身も心も罪色に染まってます。だからやる事なす事、考える事、感じる事...基本的に罪色なんです。

そんな僕たちが聖書の言葉を読む時、必ずしもいい気分はしない...事があるんじゃないかな。
言われたくない事が書かれてたりします。読むふりしてすっ飛ばしたくなる箇所があります。

そして自分の好きなみことばだけにフォーカスして、それを暗唱して、満足して...そんな事ないですか?

ある先生が言ってました。「私たちの多くはバイキング方式の聖書の読み方をしてる。」
どういうことかって言うと、バイキングレストランでは、好きな物だけお皿に取って、嫌いな物は取りませんよね。
同じように好きなみことばばかり食べて、好きじゃないみことばには手もつけない...って事です。

教会で、人々が聞いて嬉しくなるメッセージをしてたらもちろん人は集まってきます。
「神様は必ずあなたの願いを聞いてくださいます」「献金したら神様がお金持ちにしてくれます」「ありのままのあなたでいいんです」「神様はあなたがハッピーでいてくれることが何より嬉しいんです」

そういうメッセージを聞いて、満足して、嬉しくなって、人々は「満たされた」「恵まれた」と言って帰って行きます。でも、そこに「イエス様の弟子」の姿はありません。「イエス様の姿に似せられる」事もありません。

僕は神様が語っておられる事...神様が私たちに願っておられる事をしっかり伝えて行きたい。
人々が聞きたがっているメッセージを語るんじゃなくて、神様が願っておられるメッセージを語りたい。
人々が教会に来て満足して帰るんじゃなくて、神様が満足してくださる姿に変えられて行って欲しい。

聖書は時には(って言うかしょっちゅう)、厳しい事を語ります。心の触れられたくない部分を突っつきます。
自分の手放したくない物を手放しなさいと言います。自分が避けてきた事に直面しなさいと言います。

どうしてそんな事を言うかって言うと...申命記10:13でこう言われています。「あなたのしあわせのために、私が、今日、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守る事である。」

あなたのしあわせのために...これなんですよ!!

僕たちの罪色の心が感じる「気持ち」は必ずしも健全な気持ちではありません。
いやぁな気分になってもしょうがないんですよ...でもね、それが本当の「しあわせ」に近づく一歩なんです。

怪我の治療をする時、痛いじゃないですか。でもそこに触らないと治らない...あれと同じです。

本当に神様を愛しているなら、神様に、そして神様のことばにしっかりと正面から向かってみてください。

神様があなたに何を語っておられるか...自分の気持ちじゃなくて、人の言葉じゃなくて、神様の言葉にしっかり耳を傾けてみてください。それが神様があなたに願っておられる事なんです。

2014年10月9日木曜日

僕らは神のかたちに造られたってどういう事?

そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造した。
創世記1:26-27

神のかたちに造られた...ってどういう事だろう?
このテーマだけで本が書ける...って言うか、出版されてる。
神学書を開いてもこのテーマで何ページも使われてる。

「かたち」という言葉の原語を取り上げてああでもない、こうでもない、といろんな事が言われてる。

神様が権威を持っているように、地上でも権威が与えられてる...とか
知的...考える事ができる...とか
感情をコントロールできる...とか

解釈はとめどなく展開している。神学者がもっともらしく書いていると、もっともらしく見えるもんだね。

昔、バイブルスタディでもいろんな意見が飛び交っていて、ディスカッションが盛り上がっていたような記憶がある。

でも聖書学校で教わったのは...「聖書の答えは聖書から」。

神のかたちに似せて...と言うのがどう言う事か、神学者たちが言ってるほとんどの解釈は聖書には書かれてないんですよ。神学者の頭の中から生まれて来た「人間のアイディア」なんです。

聖書は何を教えてくれてるだろう?創世記5:1-2にこんな風に書かれてました。

「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」

普段は読み飛ばしてる箇所だけど...ちょっと注目してみよう。
神様が人を彼に「似せて」造られた。アダムは彼に「似た、彼のかたちどおり」の子を生んだ。

お!!同じ表現だ!!
神様が人を造られた時の表現とアダムが子供を生んだ時(もちろん実際にはエバですが)の表現...「似た」「かたち」と言う同じ表現が使われてるじゃないですか!!

つまり、神様が人を造られた時...それはまさに親から子が生まれたと言う意味合いがあるんです。

子どもは成長していくにつれて、親に似てくるよね。僕も父にそっくり...とよく言われます。喋り方、歩き方、咳のしかたまで似て来た...と言われます。別にそっくりになろうとしてるわけではないんだけど...やっぱ似てくるらしい。

同じように、僕たちも成長していく中で神様に似てくる...そういう存在として造られた、って事なんですよ。

ヨハネ1:12でイエス様を信じたら「神の子どもとされる」と書かれてます。
2コリント3:18で「主と同じかたちに姿を変えられていく」と書かれてます。

もともと神様の子どものように「神様に似せて造られた」私たちは放蕩息子のように勝手に飛び出して行きました。
でもイエス様を信じて、もう一度「神様の子ども」とされ、クリスチャンとして成長していく中で、徐々に神様に似た者とされていく...そんな意味が「神のかたちに似せて造られた」と言う表現には含まれているんですね。

って事は、私たちは成長して、天のお父さんに似た者となっていくように造られているって事。
言い換えるなら、クリスチャンになって神の子とされたなら、成長しないと意味がないって事です。


あなたはクリスチャンとして成長してますか?毎日成長し続けてますか?

2014年9月30日火曜日

罪と雑草

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪い事だけに傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造った事を悔やみ、心を痛められた。(創世記6:5-6)

我が家の庭には雑草が生えてます。タンポポとか...名前の分からないタンポポもどきとか...。
抜いても、抜いても、生えてきます。しかもあっという間に生えてきます。

雑草は成長が早いです。芝生の成長よりずっと早いです。大抵、僕たちが植えて育てようとするどんな物より成長が早いです。タンポポなんかは一晩で花が咲きます。そして1週間もたたないうちに種(綿毛)になります。

雑草はなかなか死にません。他の花とかはちょっと水をやるのを怠るとすぐに枯れてしまったりするのに、雑草はなんの手入れもしてなくても絶対死にません。

まったく困ったもんです。

こないだ庭の手入れをしていて、ふと思いました。
罪も同じだな...と。

信仰は成長に時間がかかります。
自分の信仰を見ててもそうだし、牧師として人の信仰の成長を手伝ってもそうですが...あれこれ手をかけ、ケアーして...でも時間がかかります。

どんなに手間暇かけても枯れてしまうケースもあります。

でも、罪はと言うと、放っておいてもどんどん増えます。いや、むしろ放っておいたらどんどん増える...成長する、と言った方がいいですね。

どんなに頑張っても決して無くならない。こっちの罪を処理したら、あっちから別のが頭を出して、あっちの罪を処理したら今度は別の所から別の罪が頭を出す...モグラ叩きと言うか、タンポポ退治と言うか...

だから僕たちは意識的に、心して、一生懸命、神様の方を向き、神様の方に近づいていかないといけない。
意識して、心して、一生懸命、罪から離れ、信仰を成長させる事に専念しないといけない。

そうでないと、放っておいたら心の庭はあっという間に雑草だらけになってしまうから。

神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 (ヤコブ4:8)

神様、私の罪を赦してください。
そして私がもっとあなたに近づくことができますように。
私が罪から離れ、聖い生活を心掛ける事ができますように。
あなたが心を痛めるようなクリスチャンではなくて、あなたに喜んでいただけるようなクリスチャンになる事ができますように。

2014年9月27日土曜日

あなたはわたしを愛しますか?

自慢じゃないけど、神学校(大学院)で取った5つのギリシャ語の授業、オールAでした。(やっぱちょっと自慢かも...)

で...これこそ自慢じゃないけど、今はほとんどギリシャ語使ってません。

その理由は、結構忘れてしまったから...と言うのもあるけど、使ってないので忘れたと言ってもいいかも。使ってない理由は、ギリシャ語の先生の一人が「ギリシャ語もいいけど、Context is the king!(文脈が王様)」と言ってたからです。

すぐにギリシャ語を調べるより、文脈をしっかり読み取る事で大半の箇所は解釈ができるんです。

ヨハネ21章でイエス様がペテロに3回「あなたはわたしを愛しますか」と聞かれる箇所があります。

ギリシャ語を読むと、最初の2回は「アガペー」が使われていて、最後の1回は「フィレオー」になってます。それに対するペテロの答えは3回とも「フィレオ-」です。

一般的にアガペーは神の愛、フィレオーは人の愛と言われています。
そこで良く聞く解釈は「イエス様は初めの2回、ペテロに『あなたは神の愛でわたしを愛しますか』と聞かれたが、ペテロの答えはどうしても『人の愛』でしかなかった。だから3回目はペテロのレベルに歩み寄って『あなたは人の愛でわたしを愛しますか』と聞かれた」と言う内容です。

う~ん...でも、聖書を調べてみるとアガペーとフィレオーは必ずしもそのような区別をして使われているわけじゃない事がわかります。人の愛を表す時にアガペーが使われてるケースもあれば、神の愛をフィレオーで表しているケースもあります。つまり、両方とも単純に「愛」を現わして使われている言葉なんですね。

実際、17節を見るとペテロはイエス様が3回も「あなたはわたしを愛しますか」と言われたので心を痛めた...って書いてある。つまり「愛しますか」の内容が変わったから心を痛めたんじゃなくて、3回同じ質問をされたから心を痛めた...そう書いてあるんです。

って事は、この3回の質問は同じ質問なんです。ペテロは3回イエス様を否定した。だからイエス様は3回ペテロにイエス様への愛を告白する機会を与えてくださった...これはイエス様の赦しの愛の会話なんです。

もう一つ注目したいのは、イエス様への愛を告白したペテロにイエス様は「わたしの小羊を飼いなさい」「わたしの羊を牧しなさい」「わたしの羊を飼いなさい」と言われています。これも言い方こそ微妙に違うけど、同じことを言ってるにすぎません。

ポイントは、ペテロがイエス様への愛を告白した時、イエス様はペテロに使命を与えられたと言う事です。「わたしを愛するなら、わたしのためにしてほしい事があるんだよ」と言う事です。

「イエス様、あなたを愛します!」と口で言うのは簡単です。「I love you~」と賛美するのは簡単です。でも言って終わり、歌って終わり...ではなくて、その愛によってイエス様のために生きる時に初めてイエス様を愛していることになるんですね。

これは夫婦でもそうでしょう。どんなに口先で「愛してるよ」と言っても、その愛を行動で表現しなければ愛している事になりません。(そうです...経験から語ってます...笑)

同じようにイエス様を愛するなら...そう思うだけじゃなくて、そう祈るだけじゃなくて、そう歌うだけじゃなくて...イエス様のために生きるようになる...イエス様のために何かをする者となる...言い換えるなら、イエス様に仕える者となる...それがイエス様が求めておられる「愛」なんです。それが本当の「愛」なんです。

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛する事をせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:18)

あなたはイエス様を信じていますか?あなたはイエス様を愛していますか?
両方とも答えが「はい」なら...あなたはイエス様のために、イエス様に仕えるライフスタイルを送っていますか?

2014年9月21日日曜日

熱くもなく冷たくもない信仰

「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)

これはラオデキヤの教会に書き送られた手紙です。

昔、バイブルスタディでこの箇所を学んでいた時に、「熱い信仰」と「冷たい信仰」についてああでもない、こうでもない、と話し合った結果、「熱い信仰は熱心な信仰。冷たい信仰はまったく冷め切った信仰」と解釈していたのを思い出します。

つまり、神様は私たちにめちゃくちゃ信じるか、全く信じないかのどちらかであって欲しい。中途半端は嫌われる...と。

でもなんかちょっと無理があるような...だって神様は私たちに「まったく信じない」事を望まれるはずがないですからね。

それに「まったく冷め切った信仰」を「信仰」と呼んでしまうのはちょっと無理がありますね。

なんとなくわかる気がしないでもない解釈ですが、「無理」を感じさせる解釈はやっぱどこかずれています。

これは地理的な背景を知っておくととても意味が見えてくる箇所なんです。


ラオデキヤの近隣都市、ヒエラポリスでは熱い温泉が湧いていました。人々はその温水を病気の治療などに使っていました。

一方、もう一つの近隣都市、コロサイでは冷たい天然水がわいていました。旅人はその水を飲んで疲れを癒し、力を得て、旅を続けました。

でもラオデキヤには水源がありません。そこでヒエラポリスとコロサイからそれぞれ水を引いてこなければなりませんでした。

ヒエラポリスで人々を癒していた温泉水ですが、ラオデキヤに引いてきた時には当然なまぬるくなっています。そしてコロサイで旅人を力づけていた天然水も、ラオデキヤに着くころには生ぬるくなっていました。

ヒエラポリスの「熱い」水は人々を癒す効力を持ち、コロサイの「冷たい」水は人々を力づける効力を持っていたのに対し、ラオデキヤの「なまぬるい」水は何の効力も持っていなかった...そんな背景の中でこの手紙は書き送られているんです。

つまり、「熱い信仰」と「冷たい信仰」は人々にポジティブな影響を及ぼしていた「生きた信仰」を指していおり、「なまぬるい信仰」は人々に全く何の影響ももたらさない「死んだ信仰」を指しているんです。

これを知った時は、いやぁ、感動しました!!(笑)

私たちの信仰はどうでしょうか?
周りの人をイエス様に近づける影響力を持っているでしょうか?
周りの人を励まし、力づける影響力を持っているでしょうか?

「私は救われてます。ハレルヤ!!」と自分一人で満足してる信仰になっていないでしょうか?

Be contagiousと言った人がいましたが、まさに「伝染する信仰」を持ちたいものですね。

2014年9月18日木曜日

タラントのたとえ

牧師になってから気づかされた「え?これこういう意味じゃなかったの?」って言う事を分かち合いたいな...と。決して偉そうに人を裁いているわけではなくて、聖書の正しい意味をシェアしたい...それだけですのでよろしく (^_-)-☆

タラントのたとえ(マタイ25:14-30)のメッセージを聞くと、9割が「賜物について」語られていますね。僕も信徒だった頃、そう教えられ、そう信じてきました。

これっていつ、どこで、どうやって「賜物」になったんだろうね。
恐らくアメリカからなんだろうな...(笑)

って言うのは英語でtalentって言う言葉は「能力」と言う意味があるから、ごく自然に「あ、これは賜物について言ってるんだ」って思うわけです。

でも、聖書はもともと英語で書かれたのではないと言う事を思い出そう。
当時、「タラント」と言うのは何だったか考えよう。

「タラント」は当時の貨幣価値です。つまり、今で言うなら「ドル」とか「円」ですね。
そう思って読んでみると、「なんで賜物なの?」と不思議に思えるのも不思議じゃないかも。

解釈の鍵となるいくつかのポイントがあります。

1. 2人は託された「タラント」を使って増やした。その結果ほめられた。もう一人は託された「タラント」を使わず、増やさなかった。すると取り上げられた。

2. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられてしまった。

3. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられた挙句、外の暗やみに追い出されて、そこで泣いて歯ぎしりしていた。

この「外の暗やみに追い出されて泣いて歯ぎしりする」と言う表現は聖書ではどこを見ても、救いから漏れてしまう、と言う意味で使われています。つまり、タラントを使わず、増やさなかった人は救いからもれてしまった...と言う事です。

賜物を使わなかったら取り上げられる、賜物を失ったら救われない...いずれもおかしいですね。

長くなるので詳しくは書きませんが、これを統合して考えると、「タラント」は「信仰」であることがわかるんです。

信仰は使って増やすもの...言い換えるなら、信仰は成長するべきもの。
それがこのたとえのポイントなんです。

イエス様を信じているなら、ただ「信じてます」って言って何もしないのではなくて、その信仰をどんどん使って成長しなさい。

5タラント託された人は、5タラントなりに成長しました。
2タラント託された人は、2タラントなりに成長しました。
1タラント託された人も、1タラントなりに成長できたはずなんだけど、成長しませんでした。

使わず、成長しないならそんな信仰は「死んでいる」とヤコブ2章でも言われてますよね。

つまり、使わず、成長しない信仰は無いに等しい...そんな信仰では救われない...だからちゃんと使って成長してね...とイエス様は言ってるわけです。

ヤコブ2:14、17、20、26を読んでみるともっとわかるかも。

信仰は使えば必ず成長します。
人それぞれ、スピードや程度には個人差があるけど、使えば必ず成長します。

信仰を使うって事は...「イエス様信じてるから...イエス様愛してるから...イエス様のために何かしよう」って事です。

礼拝はもちろん、他の教会行事に参加しよう。
バイブルスタディしよう。学んだことを適用しよう(これが大事)。
奉仕しよう。
伝道しよう。
とにかくクリスチャンとして生活しよう。

そしたら必ず成長するよ!!


2014年9月12日金曜日

エデンの園~あるべき姿

こないだ、荒野の旅のストーリーが好きです、って書きましたが、エデンの園も大好きです。
って言うか、創世記1~3章大好きなんです。

大切な聖書の教理がぎっしり詰まっているから。
神様と人との関係の原点がそこにあるから。

エデンの園は神様が初めに造った人、アダムとエバを置かれた場所です。
エデンの園は神様が初めに造った「人間界」です。
そこには本来あるべき姿があるんです。

本来あるべき人の姿。
本来あるべき神様と人との関係。

つまり、私たちがクリスチャンとしてどうあるべきか...それがエデンの園にあるんです。

別に裸でいるとかそういう事ではありませんよ。(笑)

エデンの園には神様が、人に必要な物のすべてを備えてくださっていました。(創世記2:9-14)
エデンの園では神様が「これをしなさい、あれをしなさい」と言われ、人は純粋にそれをしてました。(創世記2:15)
エデンの園では神様が「これはしてはいけない」と言われ、人は純粋にそれを守っていました...罪が入ってすべてが崩れるまでですが...(創世記2:16-17)
エデンの園では神様と人が常に交わりを持っていました(創世記3:8)

これが本来の人の姿...人と神様の関係です。

でも、罪が入って、すべてが狂ってしまいました。
人は神様が言う事に対して「でも...」「だって...」「やだ」と言うようになりました。
逆に人が神様に対して「これして」「あれして」「もっとちょうだい」と言うようになりました。
神様との交わりが途切れました。

イエス様を信じて救われるって事は「天国に行けるようになる事」って言うよりは「エデンの園状態に戻る事」なんじゃないかな、って最近思わされてます。

つまり、神様ともう一度つながって、神様が「これしなさい、あれしなさい、これはしてはいけない」って言われる事は純粋に行なって、神様との交わりの中で生きる...って事。

俗に「従う」って言う言葉を使うもんだから私たちは抵抗を示しちゃうけど、これが本来の私たちのあるべき姿なのであって、抵抗を示すって事はまだまだ自我にしがみついていて、エデンの園に戻りたがらない自分がいるからなのかもしれない。

むしろ、本来のあるべき姿に戻ろう...って言う思いで「従う」って言う事を受け止めたら、もう少し抵抗が減ってくれるかも...だって、エデンの園は文字通り平和で、争いが無くて、神様の愛と恵みと祝福があふれていた、輝かしい場所だったから...そこに戻れるなら最高じゃん。

そのためにイエス様が十字架で苦しんで死んでくださったんだから...


神様、今日一日、昨日よりも一歩エデンの園状態に近づくことができますように。

2014年9月6日土曜日

荒野の旅

あなたの神、主が、この40年の間、
荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。
それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、
あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
(申命記8:2)

僕、荒野の旅のストーリーが大好きなんですよ。
どうしてかって言うと(小学生みたいな言い方ですが)...

荒野の旅は僕たちの人生を描写しているから。
荒野の旅を理解すればするほど、人生がわかるから。

イスラエルはエジプトでの奴隷生活から救い出されて、約束の地に向かいます。
約束の地への通り道が荒野の旅です。

僕たちは罪に縛られていた生活から救い出されて、天の御国(天国)に向かいます。
天の御国への通り道がこの地上での人生です。

荒野の旅は決して楽ではありませんでした。
欲しい物が必ず与えられる生活ではありませんでした。(でも必要な物はすべて与えられていました。)
人間的に期待する「祝福」に満ちた生活ではありませんでした。(でも神様は常に共に歩んでくださり、永遠の祝福に向かって一歩ずつ進んでいました)
何も問題の無い、平穏無事な生活ではありませんでした。(むしろしょっちゅう敵に出くわし、戦いがありました)

でも荒野の中で一日、一日、神様に従って前進するなら、必ず約束の地に入る事ができるんです。
それが荒野の旅の目的でした。申命記8:2-6に、荒野の旅に注がれた神様の思いが書かれています。

・ あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るため
・ 人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもの(みことば)で生きる、と言う事をあなたにわからせるため
・ 主の命令を守り、その道に歩み、主を恐れる事を学ばせるため

僕たちの人生も...
欲しい物が必ず与えられるわけではありません(どんなに祈っても与えられない物は与えられません)。でも毎日の必要は必ず与えられています。
人間的に期待する「祝福」に満ちているわけではありません。(ある人は裕福ですが、ある人は違います。ある人は成功しているように見えますが、みんなではありません)
クリスチャンになっても問題は絶えません。

でも一日、一日、神様のみことばを守り、神様を恐れ、神様を愛し、神様の道(神様を第一にする道)を歩む事で、天の御国に一歩ずつ近づいていくわけです。

いやぁ、聖書って本当にいいもんですね。(古い?)

2014年9月4日木曜日

脱「人間中心」


「神様の恵みは罪を正当化する言い訳じゃなくて、もっと神様を愛し、仕えるための理由です。」

ある教会で1年間「恵み」についてメッセージが語られていたって聞いた事がある。
へぇ...って思った。僕にはできないなぁ...って思った。(笑)

神様は恵みを注いでくださっている。
神様は愛してくださってる。
神様は必要を満たしてくださる。
神様は罪を赦してくださる。
神様は導いてくださる。
神様はいやしてくださる。
神様は力を与えてくださる。

確かにその通り。そして聞いてる人は「神様ってステキ!」って思っただろうね。
みんな気分良かっただろうね。

でもそればっかってのはどうなのかなぁ...

今のキリスト教の信仰って人間中心のような気がする。
多くのクリスチャンは神様がしてくださる事ばっかり期待してるような気がする。

でもそれってなんか人間中心すぎない?
それって神様が人に仕えてるピクチャーじゃない?
本来は神様が中心の世界で、人が神様に仕えるはずなんじゃないのかなぁ...

ある日曜日、若いクリスチャンがこんな事をFBに書いていた。
「これから礼拝。神様がどんな事してくださるか楽しみ!」

礼拝って神様が僕たちのためにしてくださるものじゃなくて、僕たちが神様のために奉げるものなんだけど...

神様が恵みによって私たちを救ってくださったのは、自分と自分の罪に仕えていた僕たちが神様に仕えるようになるため。

だって、天国に行ったら毎日何するの?

「神と小羊の御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え...」(黙示録22:3)

これが本来あるべき僕たちと神様の関係なんだよね。
僕たちは神様に仕える者として造られ、神様に仕えるために救われたんだ。

でも僕たちは神様が自分に仕えてくれる事ばかり期待しているような気がする。

「神様、今日私はこれをするから、私と一緒に来て祝福してくださいね。」
「神様、私これが必要だから、用意しておいてくださいね。」
「神様、今日も恵みをしっかり注いでいてくださいね。あ、あとあわれみも忘れないで。」
「神様、今日めっちゃきつい一日でした。何してたんですか?」

誰が主人で、誰がしもべなんだろう?

神様がしてくださる事を知るのも大事だけど、神様のために自分がすべきことをもっと考える事がもっと大切なんじゃないかな。

そう思って聖書を読んでみると、神様がしてくださる事よりも、神様が僕たちに期待している事の方が断然多く書かれてる。(俗に「戒め」と呼ばれてます)

神様が自分のためにしてくださる事を期待するより、神様が自分に期待している事に心を向けよう。

祈りも「あれしてください、これしてください」と言う人間中心の祈りからこういう風に変えてみよう。

今日、あなたは私にどう生きる事を求めておられますか?
今日、あなたは私に何をしてほしいですか?
今日、あなたの期待に応える事ができますように。

僕はこう書かれてるリストバンドをしてます。
He died 4 me. I live 4 Him. (彼は私のために死なれた。私は彼のために生きよう。)

ただ、イエス様を信じて生きるクリスチャンじゃなくて、イエス様のために生きるクリスチャンでありたいな。

2014年9月1日月曜日

「主」って何?

主イエスを信じなさい。
主は言われた。
主を恐れる者は...

主、主、主...聖書には「主」と言う言葉が数えきれないほど出てくるね。
でも主って何?

主イエス...なんとなく「Mr. イエス」みたいな感覚でずっと読んでたような気がするんですけど...

でも実はこれって僕たちの信仰生活にめっちゃ関係してくる意味があるんですよ。
これに気づかないと信仰生活間違いなく生ぬるくなる...そんな意味です。

それは...「主人」と言う意味。現代風に言うなら「マスター」「ボス」とでも言いましょうか...。

聖書の時代には「主人と奴隷」と言う関係が普通にありました。
「お手伝いさん」ではありません。「奴隷」です。

この関係において、主人は奴隷」とって絶対的な存在でした。
奴隷は主人に対して絶対服従だったわけです。
言われた事は必ずしなければなりません。
口答えはもちろん、言い訳もできません。
とにかく「これしなさい」と言われたら、返事はただ一つ...「はい、わかりました」

私の主イエス...と言うフレーズはそんな関係の中で生まれて来たフレーズなんです。
つまり、イエス様を「主」と呼ぶとき、私たちは「私はあなたに従います」と言ってるわけです。

ゲッ...簡単に使えなくなった...と思うかも...(笑)

でも多くの人はそんな事考えずに「主」って呼んでるみたい...実は聖書の時代にもそうだったみたい...

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者が入るのです。」(マタイ7:21)

主を信じる信仰...それはただ「イエス様~」と叫び、歌ってる信仰ではなくて、日々イエス様に従う信仰なんです。

聖書ははっきり言ってます。信じるって事はイエス様を「主」として従う事なんだ。そういう信仰を持つ者だけが本当の意味で救われているんだ...って。

でも今の民主主義の時代に生きる私たちには全然そんなコンセプトがないので、「イエス様は愛してくださる」「イエス様は赦してくださる」「愛と恵みとあわれみに感謝~」って言って「従う」と言う事をそこまで気にせずにクリスチャン生活送っている人が多いような気がします。

あなたにとってイエス様は「主」ですか?
あなたは「主イエス」を信じてますか?

2014年8月29日金曜日

信じるってどういう事?

続かないと思うけど、ブログ始めてみようかな...と。
って言うのは、牧師をしていていろんな事に気づかされて、是非それを分かち合いたいと思って。

でもいきなりこんな内容はどんなもんかいな...と思いながらも書いてみますね。

僕たちクリスチャンはイエス様を信じてます。

でも、いろんなクリスチャンと話してるといろんな「信仰」に出会ったりします。

イエス様愛して、熱心に教会に通い、奉仕してる「信仰」。
毎週教会には行くけど、特に奉仕もせず、礼拝が終わったら帰る「信仰」
用事が入ったら教会休んで、週中は特にクリスチャンらしく生きてるわけではない...でも「イエス様信じてます」って言う「信仰」
子どもの頃にイエス様信じたけど、今は教会行ってない。でも「イエス様信じてる」って言う「信仰」

みんな「信じてる」事になるのかな?イエス様信じるってどういう事なんだろう?

イエス様はマタイと出会った時「わたしを信じなさい」とは言われず、「わたしについて来なさい」と言われました。(マタイ9:9)

また「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます」って言われました。(ヨハネ10:27)

旧約聖書を読んでいると、神様は一貫して「あなたの神である主に従いなさい」と言われてます。
聖書全体を読んでも、「~~しなさい」と言う戒めだらけです。

多くのクリスチャンにとって「イエス様を信じて心に受け入れる事」と「イエス様に従う事」は別の事になっているような気がします。

イエス様を信じたら救われています。もう救いを失う事はありません。

そう教わって、喜んで、安心して...もし「より良いクリスチャンになりたかったら、もっと従ってみよう」みたいな感じなんじゃないかな。

そう...従う事がオプションになってるんです。

でも、そうじゃない。
イエス様を信じるって事はイエス様を愛して、イエス様に従うって事なんです。

「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)

イエス様を信じるって言うのは過去のあの日に起きた事ではないんです。
確かに過去のあの日にイエス様を信じる決心をしたでしょう。
でもイエス様を信じるって言うのは毎日続く、現在進行形でなければならない。

今日、イエス様を信じて、明日もイエス様を信じて、明後日もイエス様を信じて...。
言い換えるなら、今日イエス様を愛し、イエス様に従う生き方をして、明日もイエス様を愛し、イエス様に従う生き方をして、明後日もイエス様を愛し、イエス様に従う生き方をして...。

イエス様を信じている人はイエス様を愛しているはずです。
そしてイエス様を愛している人はイエス様に従う歩みをするはずです。
確かに弱さがあるしパーフェクトじゃないけど、少なくともそういう生き方を心がけて一生懸命イエス様のために生きる...それがイエス様を信じるって事なんです。

あなたはイエス様を信じてますか?