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2015年8月21日金曜日

今いる所から始めればいい

それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。
(ピリピ3:16)

僕のメッセージは厳しい...ってよく言われる。「従う」って事を良く語るかららしい。

確かに「従いなさい」って言われる事を好む人はあまりいないよね。できればそんな事言われたくない、って言うのが本音なんだろう。

ってわかってるんだけど、聖書は至る所で私たちに「神に従いなさい」って言ってる。これは神様が私たちに知っておいてほしい大切な「真理」なんだよね。だからやっぱ語らずにはいられない。

人々はそんなメッセージをプレッシャーに感じるのかな...プレッシャーに感じてしまうと喜べない。喜べないと受け入れにくい。受け入れにくいと結局従えない。う~ん...悪循環だ。

そんな事をあれこれ考えている時にこのみことばに出会った。
それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。

神様は今日中に100%聖くなれ、100%従えるようになれ、って言ってるんじゃない。
今週中にすべてを明け渡してパウロのようになれ、って言ってるんじゃない。
今月中に今犯している罪を全部やめろ、って言ってるんじゃない。

みんな立っている位置は違う。レースで言うなら、ある人はイエス様を信じたばかりで、スタート地点に立ってるかもしれない。ある人はレースをスタートして間もないかもしれない。ある人は5km地点、ある人は10km地点、ある人は折り返し地点まで来ているかもしれない。

みんな次の一歩は違ってていいんだ。みんな次の一歩は違うはずなんだ。

信じたばかりの人は、まだクリスチャンとしての生き方がどういう物なのか手探り状態だろう。まだ前のライフスタイルがいっぱい残っているだろう。人の模範となる、とか言う以前に、まずは日曜日に教会に行こうって言う段階かもしれない。それでいいと思う。

信じて2~3年目の人は、もしかしたらやっと毎週日曜日教会に行くのが当たり前になって来た...って感じかもしれない。でもまだ毎日ちゃんと聖書が読めなくて、って感じかもしれない。聖書を学んで、やっと少しわかり始めて来たって感じかもしれない。周りに自分より新しいクリスチャンがいるようになって、時々「いい模範にならなきゃ」って示され始めている頃かもしれない。でもどこから始めていいのか、いまいちわからないかもしれない。それでいいと思う。

信じてかなり経っている人は...もしかしたら新しいクリスチャンを導く立場にいるかもしれない。でももしかしたら、未だに聖書を毎日読むのが課題かもしれない。もしかしたら、罪との戦いの最中で葛藤しているかもしれない。

みんな立っている位置は違うんだから、次の一歩も違ってていいんだ。隣りの人がしている事をできるようにならなきゃって必要以上に頑張らなくていいんだ。教会で他の人がしているように自分もできるようにならなきゃって10歩も20歩も先に進もうとしなくていいんだ。

このみことばの前の部分からもう一度読んでみよう。

ピリピ3:13 うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み
ピリピ3:14 神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている
ピリピ3:16 すでに達しているところを基準として、進むべき

自分が今いる所を基準として、次の一歩を踏み出せばいいんだ。一歩でいいんだ。大切なのはこの一歩を踏み出したい、って言う気持ち。イエス様が私のために十字架で苦しんで、死んでくださったんだから、その愛に応えて一歩踏み出したい、って言う気持ち。


その気持ちさえあれば、後は聖霊様が力を与え、助けを与え、次の一歩を踏み出せるようにしてくださるから。焦らず、慌てず、一歩ずつ。

2015年4月27日月曜日

幸せってなんだっけ?

イエスが、これらのことを話しておられると、群衆の中から、ひとりの女が声を張り上げてイエスに言った。
「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」
しかし、イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」
(ルカ11:28)

「あなたを産んだ腹、あなたが吸った乳房は幸いです。」 これは「あなたを産んだ母親はどんなに幸いなことでしょう!」と言う意味です。イエス様があまりにも素晴らしい話をしていたので、イエス様をほめたたえるだけじゃなく、イエス様の親をもほめたたえているんですね。現代の日本ではこういう言い方はまずしませんが、当時のユダヤ人の文化ではあまり珍しくない、祝福の言葉だったようです。

ま、それはともかく...どういう人を見た時「あの人は幸せな人だなぁ」と思いますか?

事業で成功している人。自分が買えないような物を何でも持っている人。ある分野で優れた能力を持っている人。子供がまっすぐ育っている(ように見える)人。いい学校、いい会社に入った人。マイホームを持っている人。素敵な彼氏、彼女がいる人。

一般的にはこういう人が「幸せ」に見えるかもしれません。そしてそういう生き方を目指し、手に入れようと一生懸命頑張っているかもしれません。

そんなこの世のメガネで、一生懸命神様に従おうとしているクリスチャンを見たらどのように映るでしょうか?「あの人、誰よりも幸せそうだな」って思うでしょうか?皆さんの教会の牧師先生はどうですか?牧師って言うのは確かに簡単な働きではありません。でも、経済的にもっと豊かになれる仕事を辞めて、神様に一生懸命従って仕え、生きているのが牧師です(大半の場合はそうだと思います。そうであって欲しい物です。) そんな牧師の姿を見て、「先生はいつ見ても幸せそうだな」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

牧師じゃなくて、信徒であっても、家族で唯一のクリスチャンで、しょっちゅう家族から嫌味とかを言われながら頑張って信仰を貫いて生きている人はどうでしょうか?会社で唯一のクリスチャンで、価値観の違う人たちに囲まれて、それでも妥協することなくみことばに従って歩んでいる人はどうでしょうか?思い切りこの世の冷たい逆風にあおられて、辛い思いをする事もしばしば...そういう人たちを見た時に「わぁ、あの人すごい幸せそう...私もああいう生き方したいなぁ」って思うでしょうか?それとも「大変そう」って思うでしょうか?

イエス様は言われました。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

この世は辛い思いをせずに生きる事ができるなら、それが幸せ...と言います。自分の気持ちが幸せの基準なんです。でもどんなにお金があって、どんなに楽しく生きていても、神様に向かって生きていないのであれば、その行き着く所に待っているのは「裁き」であり、「滅び」です。するとそれは決して「幸せ」な生き方ではありませんね。

逆にどんなに辛い思いをしていても、神様のみことばにしっかり従って生きているなら(生きようと心がけ、努めているなら)、その行き先に待っているのは永遠に続く祝福です。神様からの「良くやった。良い忠実なしもべだ」と言う最高の言葉です。

別にみことばに従うと辛い事ばかり、と言うわけではありません。もちろんそこには喜びの道も用意されています。でも、苦しみも必ずあります。何が言いたいかと言うと、嬉しい、楽しい、辛い、苦しい、と言う私たちの気持ちは幸せとは何の関係もないと言う事なんです。本当の幸せはこの世が何と言うかではなく、私がどう感じるかではなく、どこに向かっているか...誰に向かっているか...なんです。

この世の言葉に従うのではなく、自分の言葉に従うのではなく、神様の言葉を聞いて、それに従う時、私たちは幸せの道を歩んでいる事になるんです。

この世の言葉に騙されないでください。この世の考え方、価値観に騙されないでください。この世の生き方に騙されないでください。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」


あなたは今日、幸せですか?

2015年4月4日土曜日

4つの種のたとえ

良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶ人たちです。
(マルコ4:20)

ある人が種を蒔いたら、最初の種は道ばたに落ちました。すると鳥が来て食べてしまいました。次の種は土の薄い岩地に落ちました。するとすぐに芽を出したけれど、日が上ると焼けて、枯れてしまいました。次の種はいばらの中に落ちました。芽が出て伸び始めたけど、いばらがふさいで結局実を結びませんでした。次の種は良い地に落ちました。そこで芽生え、育って、30倍、60倍、100倍の実を結びました。

ご存知の「4つの種のたとえ」です。本来なら「4つの地のたとえ」であるはずなんですが、なぜか「4つの種のたとえ」と呼ばれています。ま、どうでもいい事ですが...。

少し後でイエス様が解説されています。「種蒔く人はみことばを蒔くのです。」(マルコ4:14)
そして4つの地はそれぞれ蒔かれたみことばをどのように受け止め、応答しているかの違いを現わしています。

道ばたはみことばをちゃんと受け入れない人たち...ただ聞くだけ、読むだけの人たちです。
土の薄い岩地はみことばを喜んで受け入れるんですが、「いいみことば!」で終わってしまうので、根を張らず、困難や迫害の中でみことばに頼る事はなく、すぐにつまずいてしまいます。
いばらの中は、みことばを聞き、理解もします。知識はあります。でも他にもっと大切な物がたくさんあるので、みことばはいつも蚊帳の外...実を結ぶことはありません。
そして良い地はみことばを聞いて受け入れ、従う人たちの事です。

多くの人は「良く知ってる」たとえだと思います。よくメッセージで「あなたはどの地ですか?」と聞かれます。そして多くのクリスチャンが「私はまだまだいばら...」とか言っていたのを思い出します。

でもこの事を知っておいてください。この4つの地で最初の3つは救われていない人の姿です。クリスチャンは良い地でなければなりません。

厳しいと思うかもしれませんが、イエス様の言葉を見てください。「良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」(マタイ3:10、7:19)

ヤコブも言いました。「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

みことばを実行する事はとても大切です。「私は救われているから大丈夫」と言うのはサタンの嘘です。サタンはあなたにみことばを実行して欲しくないんですよ。だから「あなたは救われているんだから、無理して従わなくても大丈夫...神様は赦してくださるよ」って言うんです。

でもだまされないでください。私たちがみことばを実行する「良い地」でいる事を神様は何よりも望んでおられるんです。もちろん完璧にはできないでしょう。罪を犯してしまう事もあるでしょう。そしたら悔い改めればいいんです。罪を言い表して悔い改める事はみことば(1ヨハネ1:9)を実行している事ですからね。

私たちはみことばを実行できない時、あれこれ言い訳をするのがとても上手です。でもこのたとえはとてもシンプルに私たちの責任を教えています。

まず、みことばを蒔く人がいますね。大抵の場合、牧師だったり、バイブルスタディのリーダーだったりするでしょう。

そしてそのみことばを聞いた人がいますね。これがあなたです。その他には誰もいません。誰かがやって来て地を耕して「良い地」にしてくれるわけではありません。誰かがやって来ていばらを切り取ってくれるわけではありません。みことばを聞いた人がそのみことばをどう受け入れ、どのように応答し、実行するか...それ次第で「良い地」になるかどうかが決まるんだよ、って言う事です。

神様は完璧さを求めているわけではありません。あれこれ言い訳をせずに、みことばを受け入れて実行する姿勢を求めておられる...それがこのたとえの教えている大切な、大切な真理です。


「いいメッセージだった」「このみことば好きなんですよ」から一歩抜け出て、「これ実行してみよう」のみことば生活してみませんか?

2014年10月9日木曜日

僕らは神のかたちに造られたってどういう事?

そして神は「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造した。
創世記1:26-27

神のかたちに造られた...ってどういう事だろう?
このテーマだけで本が書ける...って言うか、出版されてる。
神学書を開いてもこのテーマで何ページも使われてる。

「かたち」という言葉の原語を取り上げてああでもない、こうでもない、といろんな事が言われてる。

神様が権威を持っているように、地上でも権威が与えられてる...とか
知的...考える事ができる...とか
感情をコントロールできる...とか

解釈はとめどなく展開している。神学者がもっともらしく書いていると、もっともらしく見えるもんだね。

昔、バイブルスタディでもいろんな意見が飛び交っていて、ディスカッションが盛り上がっていたような記憶がある。

でも聖書学校で教わったのは...「聖書の答えは聖書から」。

神のかたちに似せて...と言うのがどう言う事か、神学者たちが言ってるほとんどの解釈は聖書には書かれてないんですよ。神学者の頭の中から生まれて来た「人間のアイディア」なんです。

聖書は何を教えてくれてるだろう?創世記5:1-2にこんな風に書かれてました。

「神はアダムを創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福して、その名をアダムと呼ばれた。アダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。」

普段は読み飛ばしてる箇所だけど...ちょっと注目してみよう。
神様が人を彼に「似せて」造られた。アダムは彼に「似た、彼のかたちどおり」の子を生んだ。

お!!同じ表現だ!!
神様が人を造られた時の表現とアダムが子供を生んだ時(もちろん実際にはエバですが)の表現...「似た」「かたち」と言う同じ表現が使われてるじゃないですか!!

つまり、神様が人を造られた時...それはまさに親から子が生まれたと言う意味合いがあるんです。

子どもは成長していくにつれて、親に似てくるよね。僕も父にそっくり...とよく言われます。喋り方、歩き方、咳のしかたまで似て来た...と言われます。別にそっくりになろうとしてるわけではないんだけど...やっぱ似てくるらしい。

同じように、僕たちも成長していく中で神様に似てくる...そういう存在として造られた、って事なんですよ。

ヨハネ1:12でイエス様を信じたら「神の子どもとされる」と書かれてます。
2コリント3:18で「主と同じかたちに姿を変えられていく」と書かれてます。

もともと神様の子どものように「神様に似せて造られた」私たちは放蕩息子のように勝手に飛び出して行きました。
でもイエス様を信じて、もう一度「神様の子ども」とされ、クリスチャンとして成長していく中で、徐々に神様に似た者とされていく...そんな意味が「神のかたちに似せて造られた」と言う表現には含まれているんですね。

って事は、私たちは成長して、天のお父さんに似た者となっていくように造られているって事。
言い換えるなら、クリスチャンになって神の子とされたなら、成長しないと意味がないって事です。


あなたはクリスチャンとして成長してますか?毎日成長し続けてますか?

2014年9月18日木曜日

タラントのたとえ

牧師になってから気づかされた「え?これこういう意味じゃなかったの?」って言う事を分かち合いたいな...と。決して偉そうに人を裁いているわけではなくて、聖書の正しい意味をシェアしたい...それだけですのでよろしく (^_-)-☆

タラントのたとえ(マタイ25:14-30)のメッセージを聞くと、9割が「賜物について」語られていますね。僕も信徒だった頃、そう教えられ、そう信じてきました。

これっていつ、どこで、どうやって「賜物」になったんだろうね。
恐らくアメリカからなんだろうな...(笑)

って言うのは英語でtalentって言う言葉は「能力」と言う意味があるから、ごく自然に「あ、これは賜物について言ってるんだ」って思うわけです。

でも、聖書はもともと英語で書かれたのではないと言う事を思い出そう。
当時、「タラント」と言うのは何だったか考えよう。

「タラント」は当時の貨幣価値です。つまり、今で言うなら「ドル」とか「円」ですね。
そう思って読んでみると、「なんで賜物なの?」と不思議に思えるのも不思議じゃないかも。

解釈の鍵となるいくつかのポイントがあります。

1. 2人は託された「タラント」を使って増やした。その結果ほめられた。もう一人は託された「タラント」を使わず、増やさなかった。すると取り上げられた。

2. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられてしまった。

3. タラントを使わず、増やさなかった人はタラントを取り上げられた挙句、外の暗やみに追い出されて、そこで泣いて歯ぎしりしていた。

この「外の暗やみに追い出されて泣いて歯ぎしりする」と言う表現は聖書ではどこを見ても、救いから漏れてしまう、と言う意味で使われています。つまり、タラントを使わず、増やさなかった人は救いからもれてしまった...と言う事です。

賜物を使わなかったら取り上げられる、賜物を失ったら救われない...いずれもおかしいですね。

長くなるので詳しくは書きませんが、これを統合して考えると、「タラント」は「信仰」であることがわかるんです。

信仰は使って増やすもの...言い換えるなら、信仰は成長するべきもの。
それがこのたとえのポイントなんです。

イエス様を信じているなら、ただ「信じてます」って言って何もしないのではなくて、その信仰をどんどん使って成長しなさい。

5タラント託された人は、5タラントなりに成長しました。
2タラント託された人は、2タラントなりに成長しました。
1タラント託された人も、1タラントなりに成長できたはずなんだけど、成長しませんでした。

使わず、成長しないならそんな信仰は「死んでいる」とヤコブ2章でも言われてますよね。

つまり、使わず、成長しない信仰は無いに等しい...そんな信仰では救われない...だからちゃんと使って成長してね...とイエス様は言ってるわけです。

ヤコブ2:14、17、20、26を読んでみるともっとわかるかも。

信仰は使えば必ず成長します。
人それぞれ、スピードや程度には個人差があるけど、使えば必ず成長します。

信仰を使うって事は...「イエス様信じてるから...イエス様愛してるから...イエス様のために何かしよう」って事です。

礼拝はもちろん、他の教会行事に参加しよう。
バイブルスタディしよう。学んだことを適用しよう(これが大事)。
奉仕しよう。
伝道しよう。
とにかくクリスチャンとして生活しよう。

そしたら必ず成長するよ!!