「わたしは、あなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(黙示録3:15-16)
これはラオデキヤの教会に書き送られた手紙です。
昔、バイブルスタディでこの箇所を学んでいた時に、「熱い信仰」と「冷たい信仰」についてああでもない、こうでもない、と話し合った結果、「熱い信仰は熱心な信仰。冷たい信仰はまったく冷め切った信仰」と解釈していたのを思い出します。
つまり、神様は私たちにめちゃくちゃ信じるか、全く信じないかのどちらかであって欲しい。中途半端は嫌われる...と。
でもなんかちょっと無理があるような...だって神様は私たちに「まったく信じない」事を望まれるはずがないですからね。
それに「まったく冷め切った信仰」を「信仰」と呼んでしまうのはちょっと無理がありますね。
なんとなくわかる気がしないでもない解釈ですが、「無理」を感じさせる解釈はやっぱどこかずれています。
これは地理的な背景を知っておくととても意味が見えてくる箇所なんです。
ラオデキヤの近隣都市、ヒエラポリスでは熱い温泉が湧いていました。人々はその温水を病気の治療などに使っていました。
一方、もう一つの近隣都市、コロサイでは冷たい天然水がわいていました。旅人はその水を飲んで疲れを癒し、力を得て、旅を続けました。
でもラオデキヤには水源がありません。そこでヒエラポリスとコロサイからそれぞれ水を引いてこなければなりませんでした。
ヒエラポリスで人々を癒していた温泉水ですが、ラオデキヤに引いてきた時には当然なまぬるくなっています。そしてコロサイで旅人を力づけていた天然水も、ラオデキヤに着くころには生ぬるくなっていました。
ヒエラポリスの「熱い」水は人々を癒す効力を持ち、コロサイの「冷たい」水は人々を力づける効力を持っていたのに対し、ラオデキヤの「なまぬるい」水は何の効力も持っていなかった...そんな背景の中でこの手紙は書き送られているんです。
つまり、「熱い信仰」と「冷たい信仰」は人々にポジティブな影響を及ぼしていた「生きた信仰」を指していおり、「なまぬるい信仰」は人々に全く何の影響ももたらさない「死んだ信仰」を指しているんです。
これを知った時は、いやぁ、感動しました!!(笑)
私たちの信仰はどうでしょうか?
周りの人をイエス様に近づける影響力を持っているでしょうか?
周りの人を励まし、力づける影響力を持っているでしょうか?
「私は救われてます。ハレルヤ!!」と自分一人で満足してる信仰になっていないでしょうか?
Be contagiousと言った人がいましたが、まさに「伝染する信仰」を持ちたいものですね。

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