2014年11月6日木曜日

試練と誘惑

信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。(ヤコブ1:3)
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて誘惑されるのです。(ヤコブ1:14)

試練と誘惑...両方ともとても身近ですね。毎日の様に試練があり、毎日の様に誘惑があります。
両方ともあまり嬉しくないものですね。試練は無い方が楽だし、誘惑は困るし。

でもヤコブは1:2で「さまざまな試練に会う時は、それをこの上もない喜びと思いなさい」って言ってます。
そんなぁ...無理やぁ...って思う。試練を喜ぶなんて...あり得ない...って思う。

でも試練はいいものだ...ってヤコブは言うんです。1:12でも「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」

って事は試練は私たちを神様の方に引っ張ろうとするものなんだ。

それに対して誘惑は...私たちの欲が引っ張るもの。そして1:15には「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」って書いてある。つまり、良くは私たちを神様から引き離そうとするものなんだ。ま、当たり前か。

ところで、「試練」と「誘惑」ってギリシャ語では同じ言葉が使われてるのを知ってますか?めっちゃ興味深い事です。「なんで?」って思います。全然違う性質の物なのに...なんで同じ言葉なんだろう?

霊的に想像してみると、試練は聖霊とか御使いが与え、誘惑は悪魔が与えてる...みたいなイメージが浮かびます。

でも現実的に考えてみると、一つの出来事の中に必ずと言っていいほど、「試練」と「誘惑」が混在してるんじゃないかな。

言い換えるなら、一つの出来事に直面した時に、私の右肩の上で聖霊が私にささやき、私の左肩の上で悪魔が私にささやいている...そんなピクチャー。

例えば、交通事故に遭った時、聖霊は「これも神様のご計画の中で起こった事。神様を信頼し続けなさい。」とささやきます。この声に耳を傾けるなら、私の心は神様に向き、事故の中でも神様に近づいて行くことができる。つまり、この事故は信仰の試練になるわけです。

でも、同じ事故の中で悪魔もささやくんです。「神様、君の事愛してるとかなんとか言ってる割には守ってくれなかったね。ひどいね。実は神様なんていないんじゃないの?」 この声に耳を傾けてしまうなら、私の心は神様を疑い、神様を離れて行っちゃう。この事故が誘惑になるわけです。

買い物してても同じ。

欲しい物があった。その時に聖霊が「それ、本当に必要?その分神様にささげられるんじゃない?」ってささやき、悪魔が「おぉ!ずっと欲しがってたじゃん。買っちゃいなよ。献金?また今度すればいいじゃん。」ってささやく。試練と誘惑が同時発生してるんですよ。

どんな事でも同じ。常に聖霊が私の心を神様に向けようとささやき、その横で悪魔が私の心を神様から引き離そうとささやいてる。

聖霊の声に耳を傾けるなら、それは試練となって私を神様の方に引っ張っていってくれる。
でも悪霊の声に耳を傾けるなら、それは誘惑となって私を神様から引き離していく。

要は私が誰の声に耳を傾けるか...それ次第でその出来事が「試練」にもなり、「誘惑」にもなるわけです。

そう思うと、聖霊の声に耳を傾けて「試練」に遭うなら、それを喜びなさい、ってのもなんとなくわかる気がするよね。


今日、誰の声に耳を傾けますか?

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