2014年11月13日木曜日

へりくだると言う事

わたしが目を留める者は
へりくだって心砕かれ
わたしのことばにおののく者だ。
(イザヤ66:2)

日本人は「謙遜」が好きですね。

ある先生が言っておられた話を思い出します。

牧師: 「Aさん、これをこの紙に書いてくださいますか?」
A: 「いや、私、書くの下手だから...」
牧師: 「そうですね」
Aさんはえらく怒ったそうです。

できるのに「できない」と言う。
これは「謙遜」ではありません。

賜物が与えられているのに「できない」と言う。
これはむしろ賜物を与えてくださった神様に失礼な態度じゃないかな...と思うんですよね。

神様はへりくだった者に心を留められます。

でも、同時に賜物を十分使って仕える事を喜ばれます。
堂々と確信をもって、喜びをもってみことばを語ることを喜ばれます。
私が信じてるイエス様は最高です!って自慢する事を喜ばれます。

日本人的に言うとこの姿は「謙遜」ではないような気がします。
じゃ、「へりくだる」ってどういう事?

聖書的に「へりくだる」と言うのは、「神様の前でへりくだる」と言う事です。

全能の神様を神として認め、その前に「私は罪深い者です」とひれ伏す事です。
神様の主権を認め、神様が自分の主、自分の王であることを認め、「私はあなたのしもべ。あなたに従うのみです」と明け渡す事です。
神様がなされる事が自分の願った通りでなくても、思った通りでなくても、喜んで受け止める事です。
神様に自分の願いをゴリ押しするのではなく、神様の御心を求め、御心に従う事です。
人の目を気にせず、神様のみことばに従い通す事です。

パウロの手紙を読むとこの事がよくわかります。
パウロの手紙を読んでいると、パウロは全然「謙遜」(人間的な意味で)ではないですよね。
厳しいし、人々の罪をはっきり指摘してるし、しまいには「私を見習ってください」なんて言ってるし...

でも、彼ほど神様の前に謙遜な使徒はいませんでした。
神を神として認め、自分は神様のしもべであることを十分認識していたから...

モーセにしても、エリヤにしても、バプテスマのヨハネにしても...人間的な意味では全然謙遜ではなかったです。

でも彼らはみんな、神様の前にへりくだり、心砕かれた者たちだったんです。
神を神として認め、その前にしもべとしてひれ伏し、従い続けたから。


こういう風にへりくだって生きたいものですね。

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