あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め。」と言うことばを聞く。
(イザヤ30:21)
進路を選ぶ時、就職先を選ぶ時、結婚相手を選ぶ時、引っ越し先を選ぶ時...どれがみこころなんだろう、って困ってしまう事がありますよね。(できれば結婚相手の場合は気持ち的にはっきりしていたいけど)
罪かどうか...だったらまだ聖書を読めば答えがあると思うけど、A社とB社...どっちがみこころ?みたいな事になると、難しいんじゃないかな。複数の選択肢があって、どれをとっても神様から離れるわけじゃないし、神様に従う妨げになるわけでもないし...そう言う時どうしたら神様のみこころがわかる?
「神様にこうしなさい、って示されました」って言う人に時々出会うけど、いつもすごいなぁって思う。私はそんなに神様の声がはっきり聞こえるわけじゃないし、自分のしたい事とか自己中心的な気持ちがミックスしちゃうから、本当に神様から示されているのか、自分の思いなのかはっきりわからない事の方が多いんですよ。
時には神様のためにしようと思っているのに道が開かれなかったりすることもある。僕はカナダの神学校を卒業してから、道が開かれるまで2年間かかりました。「神様に仕えようとしているのになぜ?」って思ったものです。あの時は結構苦しかったですね。
神様のご計画ってなかなかわからないものですよ。なんたって相手は神様で、自分はしがない人間ですから。あのパウロでさえ言ってます。「その(神様の)道は、何と測り知りがたいことでしょう」(ローマ11:33)。
でも神様はみこころを行ないなさい、って言うし...。わたしの道を歩みなさい、って言うし...。
困ったもんです。どうしたらいいんだろう?
私の「みこころ見極め法」は結構原始的で、シンプルです。ある意味、これなら間違いない...って方法じゃないかな。それは「扉を叩いて開いたら進む」方法です。
イスラエルがヨルダン川を渡った時、彼らは川の前で水が止まるのを祈って待っていた...わけじゃない。ヨシュア3章を見ると、契約の箱をかつぐ祭司たちは水がまだ溢れんばかりに流れているヨルダン川に入って行きました。すると、水がせき止められて、彼らの前に道が開かれ、彼らは進んで行きました。
まさにこれです。まず、神様のみこころを求めて祈りながら、扉を叩いてみる。つまり、一つの方向に一歩進んでみるんです。就活や進路であれば、問い合わせてみる。申し込んでみる。
何回問い合わせても連絡が取れない、返事が来ない。そう言う時は神様が扉を開いていない、と言う事でしょう。でも次のステップに進める返事が来たら、とりあえず神様が最初の扉を開かれたわけです。そのまま進んで、次の扉を叩いてみる。神様が開いてくれたら、また進む。でも開いてくれなかったら...残念だけど、そこはみこころではない(或いはみこころの時ではない)んでしょう。そこでいつまでも頑張ってないで、別の扉を探し始めた方がいいかもしれない。
自分の思いが強ければ強いほど、閉まってる扉をこじ開けたくなるものです。神様に「何とか道を開いてください」って祈って、祈って、祈って、神様を何が何でも動かそうとしたくなるものです。
でもね、主権は神様にある事を忘れないで。私たちのみこころを神様がサポートしてくれるんじゃなくて、神様のみこころに私たちがついていくんです。私たちがしたい事に神様がついてくるんじゃなくて、神様のみこころに私たちが着いて行くんです。
動機が「神様のため」じゃなかったら、十中八九みこころではないけど、たとえ動機が「神様のため」であってもそれが「みこころ」とは限りません。
神様のみこころは測り知れない。そんなに簡単にわかるもんじゃない。
その事を念頭に置いて、一歩、一歩、神様に伺いながら、扉を叩いて、開かれたら進み、閉ざされたら別の扉を探す...時間はかかるかもしれないけど、これが一番確実な「みこころ見極め法」です。
今日、あなたはどの扉を叩き、どの扉をくぐりますか?
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